2011年3月7日月曜日

イエス様を見続けましょう!

一年(ひととせ)の 間柄得し 老夫妻 玄関に桃 生けるゆかしさ
キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。(新約聖書 コロサイ2:9~10)

もし、あなたがたと私が、パウロが改宗者して間もないのに、成熟したクリスチャンとしてなした進歩のようなことをしたいなら、また彼が霊的な印象と衝撃にあって獲得した実の何ほどかを得たいのなら、また主の働きにおいて成果をおさめたように成果をおさめたいなら、一つのことが全く根本的であり、そのことをしっかり把握することです。

生まれたばかりのクリスチャンはこのことを把握し、他の全てのクリスチャンも把握します。もし、私たちが自ら自力で救いを得たり、自らの改宗をはかったり、何かを処理しなければならないとするなら、限界があるということです。

私たちは「人の子」であるイエス・キリストの光をとおして万事を見なければなりません。それは私たちがこのことを賜物としてだけ、つまり救いを賜物としてだけ、またクリスチャン生活のその他のものを賜物としてだけ受けてはいけないということです。私たちはそのことを見て次のように言うべきです。

「与え主である主に関して重要なことは何か、キリストに関して重要なことは何か、私の救いを提供してくださった主の豊かさはどんな意味を持つのか」と。

あなたがたはその点を把握していないかもしれませんが、そのことは計り知れないほど大切なことです。なぜなら、キリスト者生活の進歩やその奉仕の力のすべては、把握したり理解することから生ずるのでなく、またそのようなものとして救いを喜ぶことでなく、イエス様を見続けることから生ずるからであります。イエス様は、もうあなたがたにもわかっていただけたと思いますが、すべての神の満たしの総体であるのですから。

(今日の箇所はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003066.htmlであるが、総体としての Revelation of Jesus Christ - Chapter 7 の文章が参照できず、訳するのに苦労しました。いくつかの箇所で意味が通じないところがありましたので意訳を心がけました。原文をもお確かめくださると幸いです。写真は先日突然ご高齢の老夫妻をお訪ねしたおり、玄関でお見受けし撮影させていただいたものです。その日は、ちょうど一年前に私どもの家庭集会にお見えになった日にあたり、私たちが今度は初めてお宅に伺った日になりました。談たまたまそのことに話が及び、お互いに顔を見合わせ喜びました。「(私たちはそのことをしかと覚えずお訪ねしたのですが、奥様が何気なく一年前の日めくりの裏の覚え書きを見るともなく読まれて、はじめてこのことが判明したのでした。その導きを指して)これもやはり主イエス様のお導きですか 」とはその時の奥様の弁でした。)

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