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わたしが来たのは、地に火を投げ込むためです。(新約聖書 ルカ12:49)
火は常に物事を明るみに引き出すものです。火が這い寄り侵入し襲いかかる時、火によって滅ぼされるものと火によっても何の効き目もないものとを峻別します。物事を鮮明にし、ふるいわけ、決定的にするのです。ルカ12:51の文脈を見てみましょう。
「あなたがたは、地に平和を与えるためにわたしが来たと思っているのですか。そうではありません。あなたがたに言いますが、むしろ分裂です。」主イエス様は続けられます。「今から一家五人は、三人がふたりに、ふたりが三人に対抗して分かれるようになります。父は息子に、息子は父に対抗し、母は娘に、娘は母に対抗し、しゅうとめは嫁に、嫁はしゅうとめに対抗し・・・」と。それぞれがふるいわけられ、その属するところに納められるのです。
ある区分は神からのものであるので、存続しいつまでも永らえるものです。別のものは火によってひとなめにされ、いともたやすく存続そのものが断たれることでしょう。「この火はその力で各人の真価をためします」とパウロは言いました。(1コリント3:13)不可避で過(あやま)たず峻別してしまう火です。
それはいつも聖霊の働きの結果でありました。私たちは自らが属しているところに落ち着くのであります。それは四六時中、一種の分離する働きをします。あなたは主のために存在しているのですか、それとも主に反対するために存在していますか。あなたは主とともに行動するものですか、それとも行動しないものですか。
聖霊は私たちの本質が明らかにされるように、また私たちがそれにふさわしくなるように四六時中迫りその道筋を通して明らかにされます。その結果、聖霊が働く時、私たちははっきり主のものとなるのです。分離は必ず来るものであり、避けられないものであります。
(今日の箇所 The Cross and Way of Life - Chapter 1 は英語力のない私には全くお手上げの箇所でした。苦労したあげくの文章が上のものです。 原文http://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003062.htmlの意味をはき違えていないかとただ恐れるばかりです。ただ今日は定例の家庭集会が開かれ、「貧しい者は幸いです。」と一人の兄弟にイエス様のおことばを伝えていただきました。自分自身が主の御前で驕れる者、豊かな者であることを骨の髄から知らされた思いです。天の御国に入るために枢要なみことばでした。みことば自身が火です。おろそかに人生を歩みたくないです!)
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