2011年3月29日火曜日

"Not,But ."

野の花よ 新しい愛 伝えてよ 苦しむ人たち イエスに来よと
あなたがたは手でさわれる山、燃える火に近づいているのではありません。(新約聖書 ヘブル12:18)You are not come unto a mount, a parable mount, that burned with fire...but ye come...(Heb.12:18,22)

神様の古い計画から新しい計画への移行はどんなに広範囲な動きであることでしょうか。新約聖書にはたった一つのことがあります。それは福音のうちにキリストによって紹介され、続いて使徒たちによって伝えられていったものです。したがって、ヘブル人へのこの手紙において、全体の堅固な焦点は、一つの計画から別の計画への移行にあります。

もう一度読んでください、そして誉めたたえてください。ヘブル人へのその手紙をもう一度読んでください。ここに栄光があります。「まあ!私たちは何というところに連れて来られているんでしょうか」幕屋なのでしょうか。そうなんです、手紙の書き手は言います、この地上に長い間その時が到来するまで地上に存在したのです。ところがそれがすっかりなくなっているのです、彼は言います、今や私たちは手で作られたものでなく神様が作られた本当の幕屋、天の幕屋に入れられているのですよ、と。

ご覧なさい。この移行はどんなに素晴らしいことでしょうか。一つの計画が別の計画へと場所を譲ったのです。私は以下のように問うことを躊躇しなければなりません。これがキリスト教界が脇道にそれてしまったことですか。相変わらず古い計画にとってそれは守ることですか。相変わらず厳粛な衣装をまとうことなのですか。相変わらずそれは数々の形式や数々の方法を伴う古のモーセの計画ですか。天の御国に入れていただく解放はないのですか。それが主がここで私たちに関わりたいと望んでおられることです。

事態は悪化し神の道から離れてしまっています。すると神様は戻って来てくださるのです。そこは彼らがにっちもさっちもいかなくなったところです。神様はつねに私たちとそのようにしてかかわってくださるのです。そうだとすると神様の始めとはどんなことでしょうか。それは世界が形造られる前の御子であります。神様が御子と相談されたところに戻られること、それこそが始めであり、神様が始められるところなのです。人はどんな者もさまよっています。「私たちはみな、羊のようにさまよい」と御文が語っている通りです。

神様は始めにすなわち御子に戻されます。キリスト教界はさまよってきました。唯一キリスト教界を救う道は神の始めに戻ることです、そして御子を真実に正しく受けとめ味わうことから始めましょう。

(今日の箇所は The Great Transition From One Humanity To Another - Chapter 1 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003109.htmlですが、この作品はオースチン・スパークス氏の最晩年のメッセージの聞き書きです。上のサイトで調べるとオーディオ版で充分聞けます。1968年のものですが録音が46分残されていました。弱々しい声ですが、随所で強調が入ります。時々笑い声も聞こえます。残念ながら、ちょうど今日の箇所の始めの部分で録音は終了しています。"Not,But ."がこの箇所ではポイントなのですが、同氏はButと声を上げて言われます。この訳文が氏の品性を傷つけているものでしかないことを強く思わされました。)

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