2011年3月26日土曜日

「いのち」を伝える使命とよろこび

烈風下 びくともせずに 光浴び セキレイ一羽 いのち逞し
わたしはまことのぶどうの木です。(新約聖書 ヨハネ15:1)

まことのぶどうの木は、一つのこと、そしてその存在の唯一の目的を実現するものです。だからイエス様はこのたとえをご自分と教会に当てはめられるのです。そして主イエス様のご性質がどのようなものであるかは極めて明白であります。イエス様は全ての人に手を差し伸ばされ、全世界を喜んで受けとめてくださいます。

イエス様は世界のすべての国民がご自分を受け入れるようにと願っておられます。すべての人がイエス様の関心であり、いかなる国民も漏らされることがないのです。イエス様は弟子たちに言われました。「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」(マタイ28:19)

けれどもこのこと(※)を客観的に考えることはすべて大変良いことです。私たちのうちのだれにもその責任がなければならないからです。キリストがあなたのうちに、また私のうちにおられる証は何ですか。どのようにして人々は私たちのうちにキリストがおられることを知ることができますか。わずかに一つの方法があるのみです。他の方々は私たちを通していのちを受け取られるだけなのです。私たちがキリストのいのちを他の方々にお伝えするのです。心に飢え渇きをもち必要を感じておられる方々が私たちとの交わりを通して、それらの方々はいのちに触れることができたと感じられるのです。

様々なやり方でそのことを言い表すかもしれませんが、結局はこのことに尽きるのです。「あの男の人は、あの女の人は、私が持っていないものを持っている。それは私が必要としているものだ。私がうすうす感じている何かがある。これこそ私が本当に求めているものだ」それはすべてのクリスチャンの真理であるはずです。なぜならキリストが私たちのうちにおられ、私たちを通して主御自身が広がり、私たちを通して主のいのちが伝えられるからです。

ああ、皆さん、祈りましょう。毎日目をさましてくださるように。「主よ、私を今日どなたかのいのちの通り良き管としてください。主よ、今日どなたかに私を通してあなたのいのちを伝えさせてください。私のいるところどこででもいのちを伝えることができますように」

主はあなたにも私にもこれ以外のいかなる計画も持っておられません。私たちは多くのことを手がけるかもしれません。しかし、私たちがぶどうの木につながっているなら、私たちには実を結ぶ以外のどんな良いこともないのです。それが他の方々にいのちをお伝えするということなのです。私たちは何かを掛ける木かぎでさえありません。またどなたかがまっすぐ立ち上がることを手助けする杖でもありません。そうなのです。神様は私たちが実を生み出し、いのちを伝える以外の御用にはお用いにならないのです。

(今日の文章は The On-High Calling - Chapter 6 の抜粋引用訳です。 原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003106.htmlですが、※の指摘している「このこと」とは文章が大幅にカットされていて、この文章では文意が通じなくなっています。カットされている部分には、サタンが主の働きに挑戦し、各地で福音が広められることを恐れ、妨害がなされていること、たとえば中国やアフリカでの迫害が指摘され、一方では「教会」が無力化して福音のいのちに生きていない、これもサタンの喜ぶことなのだと述べていますので、それらのことを直接には指していると思われます。参考までにそれらを述べる際に根拠としている彼の引用している聖書箇所を書いておきます。ヨハネ15章、詩篇80:8,14、イザヤ5:1,2、エレミヤ2:21,6:9、エゼキエル15:1~6)

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