2011年3月15日火曜日

御子に求めよう

神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ(新約聖書 コロサイ1:19)

私がこれから申し上げることは、言うことも難しいことですが、皆さんには受け入れがたいことかもしれません。しかしこのようなことどもはどうしても言わなければなりません。このことを考えると一日大きな驚きがあることでしょう。

主の働きや主の力には途方もない活力、活動、機構、熱意がみなぎっています。それは全く大きなものを生み出し、全く豊富なものをもたらすようにみえます。そのことは私たちが裁断することでなく、私たちは原理を放棄し認識することであり、いやむしろ神によって定められている原理を認識することです。

最終的にあらゆる働き、あらゆる奉仕、あらゆる活動がバランスよく考えられ、いつまでも続くものかそれとも消え去るものかを決める時、単に神のための人の力であったものは全てなくなることでしょう。主のために単に人が企てたに過ぎないこともすべて消え去ります。また人自身から出て来るいかなるやり方であっても、それがたとえ神様に仕えることであったとしても、そのすべてもまた消え去ることでしょう。

キリストの活力、キリストの英知、キリストの力であったものだけが残るのです。神様はあなたの力や私の力を必要とはされません。そうではなく神様が求めておられるのは私たちがキリストの力を用いるということです。神様はご自身のしるしを人から出るいかなるものの上にも置くことができないのであります。

神様のしるしはただ御子から出るものにのみあらわれます。私たちは事柄が大きく広がりを持ち、神のための大きな働きのようにみえ、必ずそうであるからという理由でそう言うのではいけません。私たちが全き確信を持たなければならないことは、その事柄は人の勢いや組織や機構の力や神のためにする人間の熱情や活力によってもまた計画によっても実現されないということです。そうではなく、そのことは、聖霊によって力に満たされることであり、いのちであり力であるキリストご自身であるということです。

人間の性質からすると活力やこの種の全ての事柄が機動力であり、私たちは終わりには消えてゆくものがたくさんあることを確信するでしょう。そのことは神をあらわすと主張した事柄の歴史を振り返ると、明らかになるでしょう。

このことを言う目的は何かにちょっと疑惑の雲や疑問を投げかけることにあるのではなく、この真理、基礎的な真理を強調することにあります。最終的にこの世界にはキリストであること以外の何物も残りません。だから私たちは神の究極的な計画はキリストと結びつけられていて、キリストの内にあり、それがキリストであると認めねばならないのであります。

(今日の記事も Christ in You の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003074.htmlです。訳の怪しげなところがたくさんあります。一方でとどまることを知らない東北関東大震災の被害の惨状に心を痛め、考えることが宙を舞いそうな時に、みことばの真理があることだけが私たちの希望です。友人は東北の知人に「私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは人の手によらない、天にある永遠の家です。」2コリント5:1を励ましのみことばとして贈ったそうです。今日のベックさんの火曜の学びでは、56年前に那珂湊で用意されたメッセージが引き続いて語られました。この日曜日には大洗で集いが持たれる予定でしたが、震災のためにできませんでした。ベックさんの引用聖句はローマ8:18、ヘブル1:2、2:5~11、3:1、7~8、12:5~6、黙示録12:5などでした。毅然として主イエス様の恵み・支配が微動だにすることなく語られました。同胞の方々に様々な人の思いを越えて支配権を持っておられる唯一のいのちの与え主である、まことの主イエス・キリスト様を知っていただきたい思いで一杯になりました。)

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