2011年3月25日金曜日

十字架こそすべての答え

わたしを離れては、あなたがたは何もすることができない。(新約聖書 ヨハネ15:5)

生活の根底で主イエス様との生き生きとしたつながりがあり、聖霊によって徹底的にかつ絶えず生きることが求められています。十字架は簡潔にそのことが秩序だと言明します。たとえ宗教的であり、良き動機からなされ、良い意図を持っていても、生まれながらの人から出て来るもの(それは必ずしも神に反抗したり、意識的に神に敵意をもったりすることを意味していないで、人の生来の性質が現れているのですが、この場合にも)十字架は完全な秩序が無視されていることを言明するのです。

神様はそのことを法的に裁かれ、禁止されたのです。主イエス様の十字架にあって神様は究極的には次のように言われたのです。「あなたがたは生まれながらの性質によってわたしに仕えることはできない、わたしの栄光のためにいかなる実を結ぶこともあり得ない。わたしに仕えるために出てゆき、働き、労し、死ぬほど神経を使うことはできるが、あなた自身から出るものなら、たとえどんなに生来の力でやってみても、わたしのために実を結ぶことがあり得ないということはいつまでも変わらない真理なのだ」と。

神の目的を貫徹することができ、いのちたり得るもの(すなわち永遠の、神にあずかる、天来のいのち)はただ聖霊によるしかないのです。

このことがどんなにすべてのことに浸透してますか。そのことがどんなにすべてのものの吟味・分析になっていますか。たとえば、私たちが言葉に出すことについて、「そのことは聖霊にあって話されたことか」と絶えず問うてみることです。

しかし、「私は良い意図を持っていたか、主のためにやったのか」と自らに問うことは十分ではありません。そうではなく、「そのことは聖霊にあって言われたか、なされたか、それとも私がやったか」と問うことです。動機や意図を問うのでなく、自らが何の力によってなしたかを問うことであります。

私たちは日毎に自らの生活が聖霊に支配されねばならないことを認識せねばなりません。それは、私たちは自らの意志によるものが今に至るまでずっと支配してきたことを知って、そのことについて神様の前に正直であらねば(自分の罪を告白しなければ)ならないことを意味しているのです。

(今日の箇所は The Battle For Life - Chapter 3 の抜粋引用訳です。http://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003105.htmlが原文です。最初の一行の文章だけは、原文の一行目の意味が不鮮明になることを恐れ、数行前の一文を訳し追加してあります。スパークス氏の文章を日々読ませていただき、聖書を全体として読む大切さを教えられます。何よりも聖書が「いのちの書」であることを日毎に確信させられます。またこの「いのちを求めての闘い」とも訳せる題名の文章は全部で7章あります。一読をお勧めします。)

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