2011年3月24日木曜日

堅忍不抜の信仰

鷺一羽 足を抜き差し 餌を求め 歩く水底 堅忍不抜
キリストの中に根ざし、また建てられ、また教えられたとおり信仰を堅くし(新約聖書 コロサイ2:7)

(約束の)土地に入ったアブラハム ・・・しかしまさしく神から彼に与えられた約束は拒否されるかのように見えます。アブラハムが誤解したのですか。私たちは時々主に当惑させられないでしょうか。主の道が通り過ぎて見いだせなくなっていないですか。

すべて大変混乱しているように見えます。しかし一度信仰が耐え忍ぶと、ある日私たちは主を賛美するのです。その後、私たちはそうなった理由を知るのです。「義人の道は・・・いよいよ輝きを増して真昼となる」(箴言4:18)のです。状況ではない、「道」があることを記憶にとどめましょう。

これらの神様が示される道の不可思議さには神様のいくつかの隠された奥義がふくまれています。それらの奥義は主の英知と力を前面に示す別の機会ではないでしょうか。すべてが駄目になるように見え、大変大きな対立や大変不慣れな体験や状況に対する鍵がないと、私たちは誘惑に駆られ、約束は本当に神様から来たものか疑問を持ちます。万事が私たちの期待したものと反対であり、私たちは自分たちが全部間違っているのだろうかと思い始めます。

ちょうどその時が、私たちが主にあってしっかり立ち、信仰における堅忍不抜を保つ時なのです。結局のところ私たちの体験は随分似通っているものです。当惑させられ、明らかな矛盾があり、対立があります。経験のかたちは様々ですが、私たちのすべてがあれやこれやの方法を取ります。しかし「彼は信仰に堅く立つのです」

このことはどのようにして私たちのうちに確かになるのでしょうか。まさしくそれは事態が事態として、助けられる手だてもなく、私たち自身も投げ出さざるを得ず、主を仰ぎ見るしかない時、その時が私たちをとおして主が明らかになる時です。今あなたは神様の奥義を知るところまでやって来ています。今こそ主の栄光があらわされ、主の英知が示され、あなたの信仰が確立される時なのです。それが、すべて堅忍不抜の信仰の内容なのです。

(今日の箇所は The Cross and the City of God - Chapter 3 の抜粋引用訳です。 原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003104.htmlです。今日も朝、夕と地震がありました。今のところ地震のない西日本の地方の方には中々わかりにくいのではないでしょうか。それにしてもこんなに頻発する地震は初めてじゃないでしょうか。水路に抜き足差し足行く鷺に思わずカメラを向けました。彼に取っての大地は水底でしょう。彼の信頼は揺るがざる大地でしょう。「堅忍不抜」と今では聞き慣れない用語を多用しましたが、英文ではenduranceです。)

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