春来いと ラッパ水仙 さんしゅゆ 黄色ふんだん 絞り出す神 |
こういうわけで、神の安息にはいるための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれにはいれないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。(新約聖書 ヘブル4:1)
新約聖書の書き手のように、神の民の霊的生活に対して本当に重荷を覚え、責任感のある人々にとって、もっとも心を痛めることの一つは、主とともにまっすぐ歩む約束をした、かなり多くの人々が何らかの脱線に会い、神様が意図しておられることとは別のものや、はるかに少ししかないものへと向きを変えてゆくことです。それは必ずしも罪や世に対してでなく、彼らが一時的にかなり満足する方に向かうということです。
その結果、霊的成長が抑えられる転換が明らかになり、彼らが後退し、停止してしまい、「神様に全面的に相談する 」かわりに別のことで心が一杯になります。彼らの「新発見」や「光」や「導き」は、彼らが話すように、何らかの緊張をなくしたり、問題の解決であったり、自己実現への道が開かれることの約束であったり、圧迫感からの逃避からだと言うのですが、それらはめずらしさや魅惑的なことがなくなる時、いずれも「ニセの飲み水」であったことが明らかになるのです。それは収穫を見ないうちに落ちてしまうエリコの果物を生産しているようなものです。
神様の永遠のご計画の道にこのような悲劇がばらまかれているのです。聖書は、新旧両聖書とも多くの人々の悲しい話を記録しています。それらの人々は道を見失い、脇道にそれ、パウロのことばや懸念を用いるならば、「上に召してくださる神の栄冠」(ピリピ3:14)を手に出来なかったのです。新約聖書はその大部分が、こうなる可能性が存しますので、また絶えずひそんでくる危険性が悲劇的な不測の事態を招きますので、警告、勧告、奨励や懇願で占められているのです。
ヘブル人への手紙には七個になる文脈で小さなことばですが「・・・のことがないように( lest)」ということばが霊的経験の中での最も恐ろしい事柄のいくつかとつながっており、長い(失敗の)歴史の理解をもたらします。私たちが目的とするのはその歴史を跡づけたり、多方面の文脈の一覧を設けたりする不可能な仕事をしようとしているのではありません。私たちが何をさておいてもしなければならないことは一般的な安全の原則を明確に述べることであり、それとの関連で一二の危険性の例示をすることにあるのです。※
危険や誘惑は、抜け目なく巧妙に「えさ」に応じてやってくることでしょう。最も霊的である人が最も霊的なように見えるものを持ち、出現させられるでしょう。私たちの際立った気質が私たちに固有の危険となることでしょう。 (だから)感情、嗜好、議論や持って生まれた魅力によるのでなく、つねに(安全の)原則によって支配される必要があります。知性による一時しのぎ、情緒的な興奮、活動に伴う充足感は疑われねばなりません。一つの問いが重要視されねばなりません。一体これはどこに導くのか。それはどうしてもなくてはならないものなのか、もともと神様の卓越したご計画と関わりがあるのだろうか、という問いであります。
(今日の箇所は The Danger of Coming Short 「はいれなくなる危険性」の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003101.htmlです。なお※以下は本文では約1頁にわたる詳細な安全の原則が述べられていますが、今日の箇所ではいっさい省略されていて、次の最後の文節につながっています。さらにその後ろに以前2月15日に「かき乱す者たちの存在」の題名で訳出しているものが続くことになります。これも関心のある方はそちらの方もお読みくだされば感謝です。さらに意味が鮮明になることでしょう。)
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