神様は御子を私のうちに啓示することをよしとされた(新約聖書 ガラテヤ1:15~16)
もし、神様が愛される御子キリストが信者の心のうちで他のものよりも中心になり卓越しているなら、他のものは価値がなくなるにちがいありません。神様にいどむ論議は分断されるでしょう。人為的な論議や人の活動とその人自身の計画から引き出される論議や神様の関心事の中に自らを取り込もうとするような論議は、主イエスの啓示が内面的に明らかであるところには成り立ち得ないのです。それらの論議は存在できないのです。
私たちの前には次の二つの事柄が控えています。一つは心のうちにイエス・キリストの啓示を受けているゆえに主を慕っているというものです。もう一方は、心のうちにキリストの啓示を十分経験していないので、私たちが神の関心事であるとか神のためになるとか言いそうなことで、その実、決して決して神様の心をお喜ばせできない別のことに心が向かっているということです。(彼らにとっては)父なる神様の心の満足は、目に見えるものであります。
愛する皆さん、私は今個々人について話しているつもりです。 私も皆さんも、キリストが私のうちにまた皆さんのうちで明らかにされる物差し以外にはクリスチャンであると主張する根拠は正しくないのです。そしてすべての権力や地獄の力はそのことに反対するのです。信者は世にある他の誰よりも反キリストそのものである彼らを非常に怒らせるに違いありません。(Believers have far more to provoke them to un-Christ-likeness than anyone else in the world.) 信者は他の誰よりもはるかに嫌悪感を受け、キリストを裏切らせようとする脅迫感を経験するのです。陰府(よみ)の力は断固としてイエス・キリストの啓示に反対します。全てのことはここから始まるのです。すなわち内に住んでいらっしゃるイエス・キリストの啓示であります。
(今日の箇所は The Centrality and Supremacy of Christ [キリストの中心生と卓越性]の抜粋引用訳です。全体的に訳には自信がありませんが、英文を併記したところは特にそう判断するところです。もし間違っていたら、読者の方で訂正してくださると助かります。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003108.htmlです。)
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