パスカル(1623~1662) |
あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。(新約聖書 ヨハネ5:39)
宣教は「いのち」のあらわれであり、型通りの仕事に従事することではありません。私はかつて宣教を一定の働きとしてとらえ、仕事としてするもの、つまりは宣教師としての職務をまっとうすることだと考えていました。確かに人はそのことに関心を持ちました。
かなりたくさんの人が(このために)働き骨を折り、心を砕き、神様の召しと自覚していることに背かないように、その定められた仕事から離れることがないようにと心がけています。他の多くの人は宣教が生計の手段であるという理由でそこから離れることもできず、彼らもまた心を砕いているのです。
しかし、それはすべて偽りです。宣教は決してそのような体制ではありません。宣教は「いのち」の現れであり、別の言葉で言うなら、内住のキリストが完遂してくださることだと言う以外にないのであります。その基盤に立たず、別の基盤に立って宣教している男女の前には困難が横たわるものです。
主が私たちをとらえ、私たちが本当に主を信頼し、その(内住のキリストが完遂してくださるという)基盤に立つなら、主は私たちにとって十分な宣教があることを示してくださるでしょう。私たちがそれを求めて右往左往する必要はありません。本当の働きというものは、かなり多くの場合、私たちがその基盤に立つことであり、宣教の結果、今の悪の時代から私たちが救われ、天の御国に到るということです。
主イエス様が私たちの模範です。皆さんはその天の人である(イエス様の)自発的な宣教、落ち着いた宣教を見られるでしょう。私はその宣教を切望するものです。そのことは、私たちが心を配らなくなるということを意味せず、かなり不必要な緊張から解き放たれるということです。それが(私の言う)宣教がどのようであるべきかということであります。願わくは主が私たちをして天に満ち満ちている天のいのちを持つ天的な人とならせてくださいますように。
(今日の箇所は All Things in Christ - Chapter 7 の一部の抜粋引用訳で7章の題名はThe Heavenly Man as the Instrument of the Eternal Purposeであり「永遠の目的を反映する器としての天の人」とでも訳せますでしょうか、その内容の結論部分です。結論に至るまで天の御国がどんなに栄光に富んだところか、みことばを通してスパークス氏は諄々と語ります。その中で、私にとって印象的であったことは、永遠のいのちとは、単に永らえることでなく、それは人に起源のない、天的な「いのち」であることが聖書に登場するナタナエル、ニコデモ、マリヤなどの例を通して明らかにされてゆくところでした。そして最後にいきなり、Ministryということばが登場するのです。それを上記のように私は「宣教」と訳しましたが果たしてどうなのでしょうか。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003067.htmlですので関心のある方はご検討ください。
今日は火曜の学びに出かけました。ベックさんは56年前に用意されたメッセージを語られましたが、みことばエペソ1:5~6、23、ローマ8:14、23、29は古びません。聖書の真髄は変わることありません。こどもであることから脱し、成長し神の息子になる者が天の御国を受け継ぐものであると語られました。スパークス氏と全く同じ信仰です。神の家を構成する一人一人は霊の生ける石です。だから、この石は、もちろんレンガではなく、知識を得ようとする主の学生でもなく、主が訓練を施されるこどもであることが強調されました。聞き終わって階下に降りましたら、写真のパスカルのことばの額が目につきました。パスカルもまた信仰が絵空事、空を打つ拳闘でもなく、生き生きとした信仰に生きる人でありました。そのようになるように、パスカルは主の訓練として病を得たのです。)
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