2011年3月4日金曜日

見えないものを見つづけたい。

ひよどりの キョロキョロと 見しものは 我の姿か 見えざるものか
彼が見つめていると、すっかり直り、すべてのものがはっきり見えるようになった。(新約聖書 マルコ8:25)

親愛なる皆さん、あなたも私も個人ですが、もし私たちが主の民の仲間に属するとしたら、その集団もまた、それぞれがイエス・キリストを霊的に見るなら、その時初めてキリストにあって完全に究極的な神の目的に向かって進むことができるのです。主を見ることが前進に欠かせないのです。

「見える」という言葉について考えてみましょう。もちろん、私はあなたの肉の目が見たことについて考えようとしているのではありません。あなたの内側で起こることについて考えたいのです。あなたは、霊的な内側の目が開かれているのです。

だからあなたはおっしゃるのです。「私は主を見ました。私の生活は全く変わりました。私自身がどうであろうとも、私を導く生活の力となりました。」そうなんです。神様に感謝してください。そうなるのです。私は私たちがしなければならない面やその要因を無視しているのではありませんが、神様はもし私たちがしなければならないことや自分ですることを手放す意志があるなら、私であろうとあなたであろうと、ともに助けてくださるお方なのです!

私はあなたにお伝えしなければなりませんが、私も何回も何回も競争※を諦めたことがあるのです。そして、このことはあなたの体験なさったことでもありましょうし、あるいは今、体験なさっていることを言い表すことになるのかもしれませんが・・・

そのことは言い表すのも恐ろしいことです!実に何度も何度も私は心の中で諦めたでしょうか。余りにも難しく、もうこれ以上前に進めなくなるほどで、全くお手上げでした。だから、私が続けられたのは粘り強さではなく、使徒が「私のうちに働く御力」と呼ぶものでした。その御力とは何でしょうか?

聖霊が私たちの内に力を入れてくださるのです。私たちは(そのことを)経験したのです。経験しないことはあり得ないのです!戻ることはあり得ないのです。いわゆる見ることは薄れていくことでしょう。日毎に暗闇と困惑ゆえに影に支配されることさえありうるでしょう。

パウロが「私たちは、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、ついにいのちさえも危うくなり」(2コリント1:8)と言った時の意味を知ることができます。それは全ての使徒のうちで最も偉大な人にとっても言うさえ恐ろしい経験でした。しかし、何が起こりましたか?パウロは諦めて「ああ、私はもう前に進めない!」と言ったでしょうか。

いいえ、飛んでもありません。「私たちのうちに働く御力」が彼の足を何度も何度も立たせたのです。エリヤがえにしだの木の陰にすわり、「私のいのちを取ってください!」と言ったときのことを考えてみましょう。主は同意なさらなかったのです。主はエリヤに主の偉大な永遠にわたる目的の分け前を与えられたのです。ですから彼は再び立ち上がることになるのです。

勇気を出してください。あなたは落ち込んでいるのですか。落胆しているのですか。失望しているのですか。もう前に進めないと感じているのですか。それでもあなたは再起します。何かが起こります。私はそのことを「見える」と呼んでいますが、それが間違って受け取られているのでしょうか。

私の言おうとしていることは、霊的な知恵が私たちの生活の中に入れば、私たちに目的、すなわち神の目的意識が与えられ霊的な力となるということなのです。それは神様がなさることであり、少なくとも私たちが生き残る秘訣となるということです。しかし生き残るために私たちが生かされているのではありません。私たちは自分自身のいかなる力をもとにしても生き通せる者ではなく、イエス・キリストにある神様の目的を見させていただくなら、神様の永遠の計画通りにその計画のうちを歩んで行けるのであります。

(今日の箇所は The Will Of God In Relation To His People - Chapter 3の抜粋引用訳です。比較的読みやすい文章ですが、意訳を多くせざるを得ませんでした。原文http://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003063.htmlより少し後半長目に余分に訳してあります。 ※「競争」全体としてこの文章はヘブル12:1~2が引用聖句になっており、そこに「私たちもいっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けようではありませんか。信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」が含意されていると思われます。読者は突然のごとく出て来るこの「競争」をこの意味で理解されることが求められていることと思われます。その背景で上述の文を再読されると味が出てくるのではないでしょうか。)

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