2011年3月16日水曜日

造り主におゆだねします

ヒヤシンス 立ちたる姿 りりしいぞ
互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは、古い人をその行ないといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。(新約聖書 コロサイ3:9~10)

キリストご自身は、この地上におられた時、人々に(救いの)戸口から入ったり、まっすぐで狭い道に入る時、困惑するということを必ず知らされました。現に人々は困惑したのです。今そのことを言うのは大変恐ろしいことのように聞こえますが、特に戸の内側に入ってまだ日の浅い信者にとってですが、しかしそれは完全にはっきりしていることであります。主イエス様は決して誰であろうとだまそうとはなさらなかったのです。全然それとは違いました。

主イエス様は人々に、当時示されたように、「主に従う」ことは困難と苦しみと迫害と試みに、そして一生涯、それらに巻き込まれることだということを知らされたのです。ここには犠牲があります。大変な犠牲です。そして、代償があるということ、というのは疑いもなくこの生活には代償があり、永遠にとてつもない代償があることになりますが、これは生まれながらの(新生していない)人にとってはいかなる方法によっても容易ではないと私たちは知るのです。

この聖霊の働きは厳しいもので肉なる人の性質にとっては極めて試みのあることです。ただ誤解しないでください。聖霊ご自身がこの働きを完遂されるのに全精力を費やされるということであります。本当にその通りなのです。だから主イエス様は私たちを置き去りにされなかったということは疑う余地のないことです。

しかし注意してください。 嬉しいことに、使徒パウロはそのことを次のように指摘しているのです。それはまことに経験上真実であるからです。それは新しい人とは更新されつつある人だということです。記憶にとどめてください。最初に「脱ぎ捨てること」と「着る」ことの的確で厳密な処置がありましたが、今や継続されるその働きは、わずか一日の一瞬の一回きりの行為ではなく、私たちのうちに継続するものだということです。

新しい人は日々更新されるのであります。そしてその過程は最後まで続くものであります。私たちがもうこれ以上続けることが認められなくなるまでは、すなわち終止符を打つに至るまでは止むことがないのです。

(今日の箇所は God's Supreme Interest in Man - Chapter 3 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003096.htmlです。スパークス氏はこのコロサイ人の手紙の聖句の中には聖霊なる神様の名前が特に書き留められていないが、この人を造り主の形に似せて造り上げる働きこそ聖霊なる神様の働きであると言及しています。一方、「古い人」の例として、サウル王を、「新しい人」の例としてダビデ王をそれぞれ旧約聖書中のサムエル記を資料としてあげています。そして二人の差は主の御心を喜んで行おうとするか、行おうとしないかの違いであったと指摘しています。)

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