2011年2月16日水曜日

豊かな「いのち」とは

枝垂梅 すでに満開 時近し 如月の雪 溶け去る日向
わたしが来たのは、羊がいのちを得、・・・(新約聖書 ヨハネ10:10)

一方で永遠のいのちが私たちの生来のいのちを切り離すために神様とのつながりを持つ原理として働くなら、他方でその働きは全く素晴らしいものであります。それが「主のなさることは私たちの目には素晴らしい」ということです。

主は私たちの肉体のいのちとしてお入りになり、私たちが最善の時にできたかもしれないが決してできなかったこと以上のことをなさります。確かにそれは現在の可能性よりもはるかにまさったみわざです。なぜなら主はこれまで私たちは人間として最善であっても何者でもないということを知らしめて来られたからです。いのちはそのことをなすのです。(主の与える)いのちはひとつの原理(肉の原理)を追い出し、別の原理(いのちの原理)を与え、いのちが働くようにその余地をつくるのです。

私は信じているのですが、そのことが主が「 わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです(ヨハネ10:10)」とおっしゃった時に言おうとされた意味です。私たちはこれまでそのことは私たちが豊かになることを意味していると思ってきました。私たちは絶えず自分自身が素晴らしく意気が高揚し、エネルギーに満ちた思いを持つようにもっと豊かないのちをと求めています。

(しかし )主ははるかに実際的であります。そしてもっと豊かないのちとは以下のことを意味しているのです。いのちを持つなら、自らを少しずつ導く必要性があることに気づき、そのいのちだけが豊かさをもたらしてくれるので、いのちの道を歩むにしたがって、(主の)いのちをふんだんに必要とするだろうということです。

そして主の御意志はいのちを十分に与え、満たしの目的を達成されるということです。なぜなら(主の)目的はそのような豊富な目的であるからであります。(主の)いのちだけが目的にかなうものなのです。

(今日の箇所は All Things In Christ - Chapter 9の引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003045.htmlです。随所に括弧書きで示したものは原文にないもので、読みやすくするために使いました。 なおこの項目は1月20日の続きになっています。昨日火曜日の吉祥寺の学びでベック兄は再三「選ばれた者の解放と生活に対する奉仕」ということばを繰り返され、主を信ずる者がいかにそのために執り成しの祈りに専念しているかと迫られましたが、同時に「悪い思いは実現する、それから判決が下される」と悪魔の働きに言及され、たとえ悪魔が勝利を得ているように見えても、それは主の許しのもとにあることで、究極的には主の勝利が成ると語られ黙示12:11、ピリピ1:6などを引用されました。この注釈は昨日の項目につけたすことが適切かもしれませんが、忘れないうちにと思い、あえて今日の項目に付加させていただきました。)

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