何と言う名前の鳥でしょうか。川向こうで見つけた鳥が川のこちらがわに先に来て待っていました。続きは下の文章をごらんください。 |
パウロは「キリストのからだのために苦しむ」「キリストの苦しみの欠けたところを満たす」というふうに、主のために心から苦しみ悩むことを知っていた人でした。私たちもそうあらねばなりません。神様のために重要なことは神様の痛みを分かち合うことです。
キリスト者の働きにはすべて惹きつけられるものがあります。しかしそれは単なる人の熱意によるものではありません。また組織されたキリスト者の活動には熱中し興味があるものですが、その活動はその価値を決める人々の前でなされるものではなく、隠れたところにおられる神様の前に主を証しようとする心からされるものです。
あなたは主に迫られての愛がありますか。主の証が主の御名が称えられている人々の間で途絶えていることはあなたにとって心の張り裂けとなっていますか。私たちの基準に主のお苦しみが入って来ない限り決して事は運ばないでしょう。真に不変的で永続的な価値を持つ宣教は私たちの心に苦労が入れられる程度によります。
今日は悩みの日です。救われていない人であるか、主の民であるかどうかはともかくです。あらゆる真の霊的な活動は苦労を通して生まれます。常時神様に最も用いられている人はこの苦労を魂のうちに、そして神とともに隠れた生活のうちに経験した男女であります。
あなたはそれを経験しましたか。いいえ、とあなたは言うでしょう。それなら、主にお求めなさい。「私を主の関心のところへ連れ出し、今この時あなたの御前で私自身に手を伸ばしあなたが重荷とされるところへ連れ出してください」と。
(今日の箇所は直接にはエズラ記8章がテキストです。 The Time in Which We Live 川は大変です。弱肉強食の世界を目の当たりにしたからです。白い鳥数羽が川中に降り、親分が足の下に獲物を仕留めているではありませんか。魚でしょう。そのまわりには子分がいるのです。そこへしばらくすると黒いカラスが威嚇的に飛んで来て、今度はその食べ物を奪い取るのです。そんな中で載せました鳥は不思議な鳥でした。川向こうの畑で手前どものカメラを尻目にあらぬ方に逃げて行くのです。諦めて川中に目を留めたらこれはまた何と白い鳥の群れでした。それもそのはず、獲物を親分が仕留めたからでしょう。そんな光景もカメラに収めましたが、見飽きて対岸に向かったらこの鳥がいたという次第です。そんなあの鳥が遠く対岸にまで飛んで来たのでしょうか。そう思ったのは筆者の世迷い事に過ぎないのでしょうか。それもこれもこの鳥の名前を知らない無知から発しています。どなたか教えてください!)
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