聖書には鳩は聖霊の象徴として描かれている。たまたま古利根川で今日見かけた。 |
私たちは神様を決して理性によって知ることはできません。また神様を知りたいという非常な決心をもって近づくことによって知ることも決してないでしょう。私たちが神様を知り得るのは私たちの霊を通してであり、霊のうちにあってのみ可能です。それですから、霊的な知識が求めていることは霊は神様との交わりのある生き生きとした完全な働きであるということです。それはしばしば魂の側面が霊を押さえ抑圧し、その結果霊が自由に活発に働かないということをも意味しています。
人は分析的な頭脳によって特徴づけられることもあり得ます。その結果すべてのことを議論したがるものです。すべてのことを自らの頭脳や理性という一種の顕微鏡のごとき存在に支配させ理性的に考えようとします。そして納得できるまでは受け入れられないというやり方ですべてのことを正しく見ようとさえします。だから人は極めて分析的になり、物事を徹底的に調べるようになります。多方面から自分の疑問に対するもっともふさわしい答えを得るまで受け入れる意志はありません。そういう人は極めてゆっくりと前進するものです。
同じことは大きな宗教的な感情の力を得ることによって、神の世界に入っていきたいと思っている人に適用できるでしょう。それは今日悪魔の用いる大きな罠の一つです。(しかし言うまでもなく)宗教的感情は(神の世界に入って行く)基準になりません。真に霊的であることとは何の関係もありません。
私たちの主についての知識は、ほんのわずかのことや最初の一条の光のようなものであっても、聖霊により覚醒され、照らし出された霊によるものです。神を知る知識の増進は内なる人の成長によるだけであり、真理を把握する知的な能力が知るところではありません。私たちは思想を把握したり真理や教えを把握するために真理と親縁関係にある理性によってその能力を増進させることができると思うかもしれません。その能力はもうこれ以上発展する余地はないというまで増進することはできるかもしれません。しかし真の霊的知恵にとってはそのようなものはもっとも小さい尺度でしかあり得ないのです。
神の子どもは霊が新しくされた者であり、存在の中心にあって神様との結びつき、交わりをもっている人です。そのような交わりは生まれながらのどんな人間も持たないものであり、新生した霊以外のいかなる他の領域においても持ち得ないものであります。このような例として(旧約聖書の創世記に登場する)アブラムとロトを取り上げてみましょう。
アブラムは神様が語りかけられることを聞いていた人であり、神様との心の内側での交わりをもって歩んでおりました。ロトも起源からすると同じ道をたどりましたが、彼が歩んだのはアブラムとともにであって、決して神様とともにではありませんでした。言わば彼の歩みは神とともに歩むことは二義的であったのであります。これが霊と魂の違いの例になります。一方の者は神様との交わりが第一でした。ところが他方の者は神様のことをうわさで知っていたにすぎません。真の神の家族は最初のものです。その家族は完全には満たされずにいて、幼児の段階にいるかもしれません。しかし真の家族は神様の超自然的な働き、すなわち新生の結果として神様と心の内側で交わりを持っている人によって構成されているのです。
「霊の父」はそこから始められ、そこで続けられるのです。そして四六時中あらゆる他の領域にまさって霊に支配されることを求めておられるのです。
(今日も本来の引用文の前後を補って訳した。題名はこれまでと同様に、引用者が勝手に考えてつけている。本文はFilled Unto All the Fullness of God - Chapter 9 でありその抜粋である。原文は
http://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003041.htmlである。)
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