2011年2月26日土曜日

仲介者の手にすべてがある、それ以外にはない

山茱萸(さんしゅゆ)黄色き花を 青茶に 点描せし 春の便りかな
神と人との間の仲介者は唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。(新約聖書 1テモテ2:5)

神によるすべての事柄の答え、説明、認識の手段は一人の人にあります。その人とは「人としてのキリスト・イエス」です。この世界が悪い方向に走ってしまう時、この住民のいる地上は一人の人に「よって」裁かれます。人類はその人とどんな関係を心の深層において持っていたかによって将来裁かれるのです。

裁きの問題は決して人がいかに善であったか悪であったか、また正しかったか間違っていたか、あるいはそれらが多いか少ないかという程度によって裁かれるのではありません。一つのことが問われるだけです。「あなたはキリストのうちにいますか」であります。もしあなたがキリストのうちにいらっしゃらないなら、もはや(先程述べたようなことがらが)多いか少ないかということには何の違いも生じません。

神の意志、宣言はすべての事柄が神の御子のうちにあるということです。あなたは御子のうちにいますか。なぜ御子を信じないのですか。裁きの根拠は極めて単純です。すべての者が一人の人にあって集められるからです。私たちのために神が人となったその人のうちに(裁きが)あるということです。それが裁きの根拠なのです。

結局、すべては極めて単純ではあるが包括的で祝福に満ちた真理に戻るのです。すなわち神を満足させ、神の目的を実現し、私たち(罪人)の要求を満たすのはキリストであるということです。すべてのことは一人の人、すなわち「人としてのキリスト・イエス」に帰するということに他なりません。

主が引き続いて私たちの目を開かせて、キリストの栄光と神のしもべでもある天的なこの人を見させて下さいますように!

(今日の箇所は All Things in Christ - Chapter 15の抜粋引用訳です。 と言いましても、A4判で138頁にまたがるこのメッセージの最後の部分http://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003056.htmlです。15章だけの表題は「神がお立てになった人(キリスト・イエス)」というものです。引用聖句はローマ8:29、ガラテヤ4:19、エペソ2:15~16、1コリント1:24~30、12:13、ガラテヤ3:27~28、使徒17:31ですので是非聖書自身をご覧下さい。なお1月20日、2月16日の本ブログの文章は9章のものです。庭に山茱萸の花が一斉に咲き誇っています。つい数日前には堅い蕾でありましたのに。日本はここ二三日一気に気温が上昇しています。)

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