2011年2月23日水曜日

「永遠」ということばを使うことのできる唯一のお方

先週土曜日に目にした菜種畑とみづうみと比良山(滋賀県守山市)
ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。(新約聖書 ガラテヤ3:28)

パウロの用法にしたがえば、私たちが本当に「キリストにある」なら、たとえお互いが何千マイル離れていようとも、私たちは常に一緒にいるものとみなされているのです。主イエス様は私たちを、この国にいる者、あの国にいる者、またそれ以外の別の国にいる者とは見ておられません。主御自身がこの宇宙にあるただ一つの国なのです。だから私たちがキリストのもとに来る時は国や国籍を離脱しているのです。

私が思いますのに、恐らくこのことはこの人(※)が異邦人であるという事実からはっきりさせられることです。 なぜならユダヤ人なら(その人に対しても)排他的であり、次のように言ったことでしょう。「私たちが唯一の(神に選ばれた)民であり、私たちの国こそ唯一の国なのだ」と。(ところがユダヤ人である)イエス様はこういう国境の外に出て行かれ、外の世界と接触をされたお方だったです。

主イエス様にとっていかなる地上の区別も取り去られています。キリストにあっては、もはやイギリス人も、スイス人も、ドイツ人も、フランス人も、さらにはインド人もないのです。唯一の国籍があるだけですし、その国籍とは天にあるものです。一つの言語があるだけであり、霊的なものであります。その国とは天国です。

私たちがここにいようとも、主にあって私たちはキリストにある一人の人として一緒にいるのです。あらゆる地上での場所や時間の違いは主にあって消滅しています。人が一分間に何百マイルとか何千マイルとか旅をしてそれほど時間をかけないで月に到着することを、何と素晴らしいことだとたとえ思ったとしても、私たちにはこの世界を旅するにはかなりの時間を要します。

ところが、皆さん、私たちがキリストにあるなら、まさしくこの瞬間に六千マイル七千マイルも離れた兄弟と接触できるのであります。そのことは一つの奇跡であります。しかしここにその奇跡のしるしがあるのです。このいのちは永遠のいのちです。時はありません。場所も問いません。イエス様がおられる時、すべてのものが「今」なのであります。

(今日の箇所は Discipleship In The School Of Christ - Chapter 4 からの抜粋訳です。 原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003053.htmlです。※これらの文章はいずれもヨハネ4:46〜54の福音書がもとになっています。このスパークス氏のメッセージはここに登場する王室の役人とその家族はユダヤ人からみて異邦人ですが、いかにしてイエス様を信じ救われるかを述べています。聖書そのものがそのことを語っているのですが、この原文を読まれると恵みは何増倍にも読まれる方に帰ってくることでしょう。)

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