三日連続で薔薇になりました。なお昨日のは薔薇は薔薇でも「はまなす」でした。 |
私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。(新約聖書 ヨハネ1:16)
(私たちは自らの生活や奉仕(宣教、天からの召しである仕事)において、キリストとの結びつきの中で、天から無尽蔵でかつ枯渇することのない豊かさを経験するのです。これが強さの最大の秘訣であります。)
この豊かさは、キリストが人の子としてお取りになったのと同じ位置に私たちがいるなら生ずるすばらしであり、とてつもない強さの源であります。その位置こそ限りなく天から豊かさが与えられるところであることを私たちは知っています。私が考えますのに、私たちはそのような地点に漸進的にして初めて達するのであり、決して一時に達するのではありません。私たちが訓練の道を歩むことによって初めてそのところまで来ることが出来るのです。その訓練とは私たちが完全に依存するという形を取るものであります。まだ訓練自身の目的である空になることも壊すこともなく、神様の恵みがともなっているのですが、その神様の恵みとは私たちが空になりさえすればキリストの豊かさがふんだんに注がれるものであるのです。
消極面はもちろんのこと積極面があります。神様は究極的な目的であるお方として消極的な事柄の信者ではありません。けれども神様が壊し、空っぽにされるのは積極面で何かをなさるのです。その積極面はたえず私たちを驚かしますが、私たちはいつも次のように言わねばならないのです。「そうだ、あれは主だったのだ。自分たち自身のせいでなかったのだ」と。私たちは漸進的にその訓練の道をたどってくるのであり、あらゆる人の力よりはるかにまさる天からの豊かさが備えられていること、そしてこれらの豊かさこそ最も適切なものであると知るのです。
これが霊性を構成するものです。すなわちこれが生活や奉仕を霊的にするのです。天から豊かさを引き出し、天から出た者としてそのいのちを生きるのです。それが霊的であることです。霊的ないのちと霊的な歩みにより成り立っているのです。その豊かさは自身からもこの世からも引き出されません。全部上から引き出されるのです。その支配は地上の人間や世からのものではありません。上からのものであります。万事は上から完全に来るものであり、全く人からのものではありません。したがって結果としてその生活と働きは霊的なものになるのです。
( 今日の文章http://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003175.htmlはたまたま以前訳したものと同じ箇所になっていましたが、それを無視して再訳しました。以前の箇所は2/18「無尽蔵な天の祝福をくださる父なる神様」となっています。文章全体は Boundless Heavenly Resources です。)
0 件のコメント:
コメントを投稿