果敢に薔薇の花弁から蜜を吸う蜂、われらもまたこのようにして生きる者だ。だが・・・ |
見よ。世の罪を取り除く神の小羊。(新約聖書 ヨハネ1:29)
世の罪とは何でしょうか。それは「高ぶり」です。あなたはそうは思われないかもしれません。またそのように現実に見られないかもしれません。けれども私はあなたにもう一度熟慮し、知っていただきたいのです。罪と呼ばれることはすべてこの「高ぶり」のあとを行くものでないかどうか、またこの「高ぶり」ということばこそ罪の別の表現でないかどうかということをです。
「高ぶり」の根源は何に対するものなのでしょうか。「高ぶり」とは何でしょうか。それはいのちにともなう自我です。活発に動き回る自我です。それが高ぶりの根っこにあるものであり、その枝の数々であり、実であります。どんなにそれらはあることでしょう。ねたみ、どん欲、怒り、そして残りのすべてです。怒りはどのようにして高ぶりなのでしょうか。
いいでしょうか、怒りは、もし聖くなく、純粋でなく、小羊であるイエス様の怒りのように血の流される聖い怒りでなく、自分自身や自分の利害によって動かされる怒りであるなら、自我の怒りであります。だから私たちの怒りはしばしば私たちの自己防衛であり、私たちの利害や関心が脅かされることに対する反応であります。反逆、強情、偏見、そして私たちの恐怖の大部分は全部「高ぶり」のあとに続くものです。私たちは何を心配しますか。また何に恐れるのですか。もし私たちがその恐れを調べたのであったら、なぜ怖がるのですか。
もし私たちが完全に個人的な関心から引き離されているなら、すなわち、もし私たちが完全に主に明け渡し、自分自身の考えから自由にされているなら、私たちの恐れの多くはなくなるのではないでしょうか。(だから、そうでもないと、)私たちはその状態を続けるのかもしれません。けれども私たちは人間の性質や高ぶりについて大がかりに分析することにふけりたくないのです。私たちがこれまで高ぶりは根であり、その根に続く数えきれない実があることを示して来たことで十分説明したことになります。※
だから、願わくは、これが、なぜ主がこれまで一方では私たちが自己充足に関して何も残るものがないまでに、この悪事(高ぶり)を克服し、壊し、空にし、粉々に砕かれ、他方では主御自身を与え、増すようにしてくださったか、また今もしていてくださっているのかということに関する説明のことばでありますように。今やこれはことばではなく、恐らく素晴らしい霊感からくるものでしょうし、大変重要なことばであると私は感じています。
これは個人として私たちの真実であるに違いありません。また共同しての謙遜でもあるに違いありません。これが主がご自身をゆだねられる方法であります。主は私たちに私たちの肉の性質を養うようなものや、生まれながらのいのちを充実させ強化するようなものは何もお与えになりません。主は私たちをそれ(高ぶり)が影響するところで、私たちを守るやり方で支えてくださることでしょう。このように聖書を見るとき、どんなに素晴らしく聖書は生きたものとなることでしょうか。
(今日の箇所は Pride and Its Undoing の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003184.htmlです。やはり訳のおかしなところが随所にあると思いますので、ご自身で点検されますように。なお※のところは次の文章までの間に大切な一頁余にわたる「高ぶり」に関連する聖書のみことばとその話が続きます。デボーションサイトの原文ではカットされているところで訳しませんでしたが、大切なところです。原文をお読みなさることをお勧め致します。取りあえずみことばだけでもと思い、それを記しておきます。箴言16:5、詩篇138:6、イザヤ14:13,14、イザヤ57:15、詩篇25:9、イザヤ66:2、マタイ5:5、民数記12:3、ピリピ2:5、ピリピ2:9)
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