草原を 餌求めたる セキレイの つがいと歩む われ神ともに |
人にはできないことが、神にはできるのです。(新約聖書 ルカ18:27)
万事はこの一事(簡単そうに見えるかもしれませんが)にかかっています。それはもしキリストが今おられるなら(そのことは神様がおられるということ以外の何事をも意味していないことですが)いかなることもいかなる瞬間にも可能であるということです。あなたはいつか事態が改善することを待ちこがれているのですか。しかしそれは時間の問題ではありません。イエス様のせいなのです。主は言われます。「わたしは時です。瞬間、瞬間、永遠です。あなたは時に関してどんなことも心配する必要はありません。あなたはわたしを受け入れなさい。そうすればあなたは朝にはほとんど死んでいても、その日が過ぎるまでには生きているでしょう」
「わたしは、よみがえりです。いのちです。」マリヤは言いました。「私は終わりの日に主がよみがえることを知っています」というのは、マリヤの言った「よみがえり」は時のことだったのです。※ ああ、そうではないのです。復活はまさしく(主が言われた)その時だったのです。(主がパンのかたまりを取られた時、私が思っているのと同じことを賛美歌が言っています。「主はパンのかたまりを取られた。時は春だった。主が砕かれた時、秋だった」)ひとかたまりのパンを砕くのに時を要するのと同じくらい、あなたは種まきから収穫まで時を過ごすのです。「あなたがたは刈り入れ時が来るまでに、まだ四ヶ月あると言っていませんか」(ヨハネ4:35)「わたしはここにいます。わたしがここにいる時はどんな瞬間も収穫の時になるのです」それは時の問題、環境の問題ではないのです。
私たちは神様と関わっています。そして神様は私たちの人間生活で知られているいかなるものにも全然拘束されないのです。主がおられるいかなる瞬間にも永遠が住まうのです。万物は主がおられるどの瞬間とも切っても切れない関係にあるのです。
あの百人隊長は申しました。「ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべはなおりますから」「あなたに来ていただく必要はありません。距離も時間も問題ではありません。ただおことばをお聞かせください。必ずそうなりますから。」主は言われた「わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません」
おことばが発せられました。そしてそのことが起こった時を調べてみると、主が話されたまさしくその時に同時に実現していることが分かったのです。主は万物をご自身の手に握っておられます。そしてこの方が「わたしの時は・・・」とおっしゃるのです。だから、時が来るとき、遅延は一切ないのです。
ああ、私たちはそのことをもっと知り、確信して生き、状況に降伏してはなりません。決して人間的な見地から避け得ないものとして諦めてはならないのであります。むしろ、こう言うべきです。「私たちには主がおられます。主は私たちの将来です。主は私たちの環境そのもののお方であります」と。いかなるものも現存する主といかなる時も行をともにしているのです。
(今日の箇所は Knowing God in Christ - Chapter 9 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003145.htmlですが、9章の末尾にあたる文章です。スパークス氏が9章で表そうとされていることは集会の性質と秩序にはどうしても主のよみがえりの位置に各人が立ち、それゆえによみがえりの価値をそれぞれが経験するのだということです。そしてそれは集会の中で経験しうるものだということです。さらに後半では霊的であることが神秘的であることと全く異なるものであることをキチンと説明されます。それにしても繰り返される次の言葉は極めて印象的であります。We need a resurrection position unto resurrection values. 主はよみがえられて40日間弟子たちに語られたことはこのことでなかったかと語られています。※これらはマリヤの言葉とされていますが、マルタのことばのように思います。有名なヨハネ11:24を指すのだとしたらですが、あと一点細部において、すなわち福音書のマルタの言葉によれば、よみがえりの対象は彼女の兄弟ラザロを指しているので、私には文中のスパークス氏の表現とは直接は異なるように思うのですが、私の浅見のせいかもしれません。読者のなかで私の誤謬を指摘してくださるとありがたいです。)
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