いつの間にか日没が遅くなり、季節の変化を覚える。東京に出て、帰っての古利根川。 |
主であるわたしは変わることがない。(旧約聖書 マラキ3:6)
( 罪人を脱出させるキリスト
みじめな人の叫びを聞いてください。「私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっています」その上がり下りの生活にあって、解決を求め、失敗し、あげくの果てに叫びます。「ああ、私はほんとうにみじめな人間です。だれが私を救い出してくれるのでしょうか。・・・私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します」
みじめな人にどんな道がありますか。キリストに捕えられることです。その人が闘い、解決し、努力することではありません。それは、今日はよりよくなろうと決心するのですが、元に戻り、その日の終わりには後悔しなければならないというものです。決して決してそんなものではありません。それはキリストに堅く信頼し、その道から出て積極的な勝利の地に降り立つことです。あなたはその方法に組するのです。
神様が御子に栄誉を与えられます。そして私たちの御子にある信頼をほめあげてくださいます。「死んで。そうです、それだけでなく、再びよみがえられるのが、キリストです。」勝利あるお方。「あなたのうちにおられるキリスト」「・・・すべての支配と権力のかしら」これがまだ救われていない人にとって、必要な事実です。
もし私たちがこの(キリストの)強さへと心が変えられるなら、私たちは始めからより強められた信者となったことでしょう。もし私たちが最初救われた時、このことを知ってさえいたら、そのあとずっと喜び踊る者となったことでしょう。ああ、この上ない救いの説教がなされますように!あなたが子孫に完全にキリストのこの働きを伝える時、完全に異なった改宗を得るのです。あなたの罪が赦され、天の御国にまで行くこと、決して地獄でないことが伝えられるだけでなく、—恐らくそれよりはもう少し、いやそれよりはるかに大切なことなのです。それは、もし私たちがキリストの働きの完全さを伝えさえすれば、大多数の人がなしているよりもはるかにすみやかに(キリストにある)成人へと前進し到達する改宗者を得ることになるということです。(略)
説教者はこのことを知らなければならぬ
それが信者にとって必要なことです。私はそれが働き人にとって、魂を扱わなければならない福音の説教者にとって必要だと言いたいです。もしあなたがこのことを伝えるなら、もちろん、あなたはありきたりの説教者とはならないでしょう。あなたは今までよりも地獄があなたに敵対して出て来ること、主の民の中で多くの人があなたに敵対する者に変わることを知るでしょう。しかしそれは必要なことなのです。
異教徒の場合を取り上げます。異教徒にあって私たちが経験することは明白でさえあっても、同じことが文化の開けた人々の場合にあってはそんなに明白ではなく、文明や多くのキリスト教的伝統で覆いつくされてしまうのです。しかし異教徒の場合には極めて明白なのです。何が異教の信仰の持ち主の多くの方にとって問題になるのでしょうか。彼らはこれまでのところ、罪からの赦し、救い、主イエス様を信ずることにおいて関心を示しますが、ああ、霊の世界、悪霊、暗闇の権力に追いかけられる恐怖を体験するのです。
そのことが続き、非常にしばしば、それが彼らを引きずり下ろし、もとの拘束へと引き戻すのです。それはその恐怖や父祖たちの伝統を壊すことの恐怖や霊の力がもたらす恐怖のためです。その恐怖が彼らに起こり、彼らを征服し、彼らは再び恐怖の虜となり、主の道を離れ元に戻るようになるのです。
しかし、もし、私たちが彼らに聖霊の力にあって「暗闇の圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださる」主の宣言を最初にもたらすことができさえするならば、異なる結果を見るのです。そのことを彼らに受け取らせてください。愛する皆さん。同じことは異教徒の国においてと同じようにこの国のここにも定着しているのですが、私が先ほど申し上げましたように、それは隠されているのです。)
暗闇の権力は異教徒の間にあるのと同様にここにおいてもまさしく生き生きと働いています。同様の福音が必要なのです。あなたはキリストがカルバリの丘で人の背後に働く霊の力に抗して働かれた様を心に銘記するにいたるまでは、完全な救いがなしとげられなかったということに気づくことでしょう。私たち信ずる者は主の敵が再び私たちを恐怖のとりこにさせようとしていることを知っています。暗闇の権力は私たちにとってまことに現実的なものであります。
私たちにはその経験がありますが、もし私たちが降伏したら、私たちの終わりとなることでしょう。主は私たちが暗闇の権力と衝突するようにされます。もし私たちがそれに対して降伏し、それを受け入れるなら、私たちは打ち負かされます。もし、私たちが主のものであるなら、キリストがうちにおられ、キリストは卓越しておられるのです。たとえ私たちが何も感じなかったり、非常に悪い感情を持っても、続けなければなりません。最後だと思われるような時も、私たちは言う必要があります。私たちはそれは神様が(してくださる)事実だからそのように言い、神様が(してくださるという)事実を確信し始める時、私たちは勝利するのです。
信ずる者は、敵が自分たちを暗闇の権力の軍門にくだらさせようとしていることを知っています。神様の真理に立ちなさい。神様は私たちの感情も、思想も変えられません。 この私たちのものであるいのちのすべては変化に支配され、天候の変化よりもすばやく変化するのですが、主はそのなかにあって変わらざる方として治められるのです。主イエス・キリストは「きのうもきょうも、いつまでも、同じです。」
だから、もし主が私たちのうちにおられるなら、主はとどまるために来られたのです。そして、勝利は信仰(そのことを信じ、立ち、維持すること)のうちにあります。私たちはその究極的で完全な決着をもたらさねばなりません。主は全ての主であります。「すべての支配と権威のかしらです」サタンは時々自分が支配者の位置に、また卓越した者であることを私たちに信じさせようとします。しかしカルバリの丘以来彼は立てず、私たちが(動揺することなく)立つのです。
(今日の文章は The Centrality and Supremacy of the Lord Jesus Christ - Chapter 4 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003177.htmlです。この文章は35頁にわたる文章の末尾の文章です。そのため理解しづらいと思い、その前の文章も思い切って訳出しましたが、かえって煩わしさばかりが目立つようになりました。また訳も必ずしも適切ではありませんので、いつものように原文を確かめていただくように切望します。なお全文は見出しで示せば、第1章「主イエス・キリストの中心性と卓越性」、第2章「一人一人の信者にとっての主イエス・キリストの中心性と卓越性」、第3章「キリストのからだである教会にとってのキリストの中心性と卓越性」、第4章「すべての支配と権力のかしらであるキリストの中心性と卓越性」となり、なかなか大切な内容の文章となっています。)
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