義母植えし 蝋梅の花 雪の中 |
主に仕えることは世からの分離に始まります。つまり、この世の王国から解き放たれることですが、それは徹底的な分離です。教会はこのことを認識すべきです。モーセが解放と分離を経験したとき、主なる神様が残されたことばは「ひづめ一つも残すことはできません」(出エジプト10:26)でした。ご存知の通り、モーセは徹底的に主に仕えました。ひずめ一つ残さないほど徹底的でした。それが神様に対する仕え方です。「見なさい。人々は完全に脱出しました。もはやエジプトとは何のつながりもないのです。」
しかし、主に仕えることはつねに外面的なことだけでなく、深い自己自身との分離に貫かれなければならないことを覚えていらっしゃいますか。私たちは世から出て、神の民の成員になるだけで十分なのではありません。そのことよりももっと必要なことがあります。私たちの全自我が厳しく処理されねばなりません。大切な分離はそこで行なわれる必要があります。
衝動的で熱くカッとなりやすいモーセは静かで忍耐強い謙遜なモーセとならなければなりません。とりわけ謙遜と忍耐を学ばなければなりません。40年間にわたり自己を明け渡す訓練はどんなだったでしょうか。モーセがやがていのちの働きを本当にしなければならない時、彼がもっとも必要とした事柄の一つは忍耐だったでしょう。忍耐を生み出すには何もしないという訓練ほどふさわしいものはありません。私たちは、忙しくしていたり、何か事を行ないあらゆる衝動を満たしている時は忍耐を学べないものです。それに対して、何もしようとせず、みことばを伝えたり、働いたり、仕えたりすることから切り離されて、黙って何もしない訓練や遅延する訓練を受ける時、神様は、そうしていなければ実現することのないような、もっとすぐれた仕え方を用意してくださっているのです。
(一日、家内の母の一周忌で帰省し、親せきの英語教師と話し合う機会があり、専門家の英語翻訳の話を聞いた。無知でどうしようもないが、新年から始めているこの試みに一つのヒントが得られた。今日の訳は少しその影響がある?引き続いて下記のサイトの翻訳である。
http://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003022.html )
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