2011年1月23日日曜日

主がくださるいのち

水仙の 八頭身か 首重し 畑にいのち 満ちあふれたり
わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。(新約聖書 ヨハネ10:10)

思い出してください。「この方にいのちがあった」というヨハネ1:4のみことばがあります。イエス様は他の人間と性質が違っていませんか。誰もがわかることでしょう。イエス様は性質そのものにおいて他の人間と異なっています。そのちがいはイエス様のうちにあるこのいのちにより生じます。このいのちは性質だけでなく、人間とは別の新しい意識をもたらすのです。主イエス様をごらんなさい。主の実際の意識とはどんなものだったのでしょうか。このことは主イエス様がつねに話されていたことです。イエス様の場合その意識は大変鮮明でした。

主イエス様は言われました。「わたしと父とは一つです」(ヨハネ10:30)「わたしがいつも、その(父の)みこころにかなうことを行なうからです」(ヨハネ8:29)「わたしが父の御名によって行なうわざ」(ヨハネ10:25)ヨハネの福音書ではこんなふうに「父」ということばが使われているのです。イエス・キリストの意識は毎日父と一体であり、父と御子は一つなのです。「父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように」(ヨハネ17:21)

主イエス様の意識は父なる神様との最も緊密な一体性の中にありました。それは神のいのちそのものがイエス様の中にあったからです。主のいのちは神を意識するいのちですが、それは完全な一致という意味での神の意識です。そしてそれがこのいのちを持つという意味です。人間はそのいのちを決して持ったことがないのです。イエスは主の(選ばれた)人にいのちをもたらすために来られました。それは神との結びつきについて話すことでなく、弟子たちに神と一つとなるいのちの生活を体験させ、(イエス様と父なる神様とがそうであったように)同じ結びつきを与えるために来られたのです。

だから、「わたしが来たのは、羊がいのちを得」とは、別のことばで言えば「私は彼らが私が持っているのと同じように、父なる神を意識するために、また私が持っているのと同じ神の性質を持つようになるために来た」ということです。

(今日の文章は以下のサイトより訳出しました。
http://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003021.html   )     

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