白椿 一枝手折り 和ませる 妻の心に われら喜ぶ |
(これまで現代の根本的な病根、人々が霊的盲目状態に置かれていることについて話してきました。今までともに読んで参りました聖書箇所※を取り上げてみても、霊的な盲目さや霊的見方の全ての背後に、極めて一般的な仕方ではありますが、どんなにかそれらの病根がおおっていることかがわかります。それですから、続けてこのようなあらゆる場合における共通した要因について話すことにします。
それは霊的に見えることは必ず一つの奇跡であるということです。誰もが生まれたままでは霊的に見えないからです。霊的に見えるとは神様の直接の働きとして天から来るものです。その能力は生来のものとして備えられているのではなく、新しく創造されねばならないのです。この世界にキリストが天から来られたために義認そのものが事実となったように、人は霊的に盲目状態で生まれ、人の霊の眼が開かれるためには天からの訪れが必要なのです。
それですから結局、霊的に見えないということはキリスト者生活において奇跡的要素をなくしているということです。人が、本当に「私は見える」と言い切るためには大変な時間の必要があることをこれまで見てまいりました。
想像してください。あなたが盲目に生まれついて、その生活を続け、大人になるまでどんなものもまた誰をも見たことがないのに、突然目が開いたとしたら。すべてのものが見え、みんなが見えるんですよ。そこには驚きの思いがあるだけでしょう。世界はこんなに素晴らしいのです。ヨハネ9章に登場するあの盲目であった人は家に帰って言い続けたことでしょう。人が見えるなんて、何と素晴らしいことでしょう。何でも見えるんですよ。素晴らしい!そのことばが彼の唇からもれることばのほとんどでしょう。
そうなんです。しかしこのことは霊的な事柄にもあてはまります。絶えざる飢え渇きは四六時中、心の中にその霊的な驚きを持っている人のものです。聖霊の啓示によって心が目ざめされ、つねに変わることなく発展して行く驚きであります。それは新しい世界、新しい霊の世界です。それが現代の必要としていることです。「私は見える!」)
クリスチャン生活のあらゆる段階、最初から終わりまで秘訣はまさしくそれに違いありません。「私は見える」私は今見ているようにはこれまで一度も見たことがない。私はそのように見たことがなかった。私は自らの博学でも見たことはなかった。しかし、今見えます!もしいのちが御霊にあるいのちであるなら、初めから終わりまでそのように言えるにちがいありません。
それですから、しばらくクリスチャン生活の一、二の局面を考えて見ましょう。そのような生活は神様の働きによって見えるというこの偉大な真実に支配されているにちがいありません。このことについて聖句の中でどんなにたくさんのことが書かれているかを知って、私が話している通りたくさんのみことばを思い出されることでしょう。
クリスチャン生活の始まりとは何でしょう。それは見えることです。見えることでなければなりません。これまで述べてきた論理そのものがこのことを要求しています。このゆえに、クリスチャン生活のすべては一つの線に沿って漸進的に進み終わりに達するものです。その線、終わりとはキリストです。それがヨハネ9章の盲目に生まれついた男にまつわる記事の核心でした。
この男が(証をし)追放された後、どのようにしてイエス様に見つけられたかを覚えらておられるでしょう。イエス様は彼に言われました。「あなたは人の子を信じますか」すると男は答えて言いました。「主よ、その方はどなたでしょうか。私がその方を信じることができますように。」イエス様は彼に言われました。「あなたはその方を見たのです。あなたと話しているのがそれです。」すると彼は言いました。「主よ。私は信じます。」そして彼は主を礼拝しました。霊的に見えるということは主イエス・キリストを深く知るということです。そしてクリスチャン生活の最初から終わりまでの全行程がそうなるように定められているのです。
私たちは救いは自分が罪人であると知ることであると言うかも知れません。しかしそこを離れると私たちには乏しいままです。
そうなんです。すべてのことがらはイエス様を見ることにまとめられます。そしてイエス様を本当に体験するとき何が起こるでしょうか。タルソスのサウルに起こったことは何だったでしょうか。よろしいですか、すべてのことが起こったのです。他の何物ももたらなかったであろう強力なことが起こったのです。あなたがもしその当時いたとしてタルソスのサウルと議論をしてもキリスト教へと導き出すことは決してできなかったでしょう。同じようにあなたが脅しても、また理性で納得させても、感情に訴えてもクリスチャンにすることはできなかったでしょう。
その男をユダヤ教から引き出すためにはこの地上で見いだし得るいかなるものよりも更なるものが必要だったのです。しかし彼はナザレのイエス様を見たのです。そしてそれがそのことをしたのです。彼はユダヤ教から脱出します。解放されます。彼は見たのです(he has seen)。
(今日もいつもの通り以下のサイトの私訳に過ぎないし、誤訳のあることは否めません。ただ今回はサイトの該当箇所だけでなく、その前にあある数十行をも思い切って訳してみました。ご参考にしてください。なお※の聖書箇所は民数記24:3~4、マルコ10:46、51~52、8:23~25、ヨハネ9:1、7、25、エペソ1:17~19、黙示3:17、使徒26:17~18です。読者はこの箇所を参照するだけで、霊的に目が開かれることがどんなことか聖書を通して理解し、恵まれるはずです。ご一読をお勧めします。http://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003025.html)
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