大海に 鴨の家族の 何語る (古利根川 11.1.21) |
私たちは「語り聞かせよ、古くあれど、またなつかしきイエスのことば」と昔の賛美歌※を歌って集会を始めたことがあります。そしてその歌を歌う時には決まって、天使によっても人によってももっとも困難だと呼ばれている事態に直面していたものです。
イエスとその愛の物語を音楽にすることは音階をフルに生かしさらにその記憶を鮮明にすることです。音楽は高みに達し、深みに達することができます。イエス様がどんなに偉大な方であるかを示すことは、イエス様の人となり、またその働きがきわめて広範囲であるからです。イエス様はどんな他の事物よりもはるかに偉大なお方です。卓越した御性質こそ主イエス様の普遍性をあらわすものです。イエス様の物語を説明できない、また意味を説明できないという言語や舌は人間のことばにはありません。そのことはすでに証明済みであり、あらゆる国語を使って今も継続的に証明されています。
それは、あらゆる時代の最も偉大な知性たちには重荷であり、負い切れない思いにさせましたが、最も単純な人、最も無教養な人々には喜ばれ、味わわれ、かつ愛されもしました。それは大人たちにとっては問題であり、困難でありますが、小さな子どもたちにとっては喜びなのであります。人に備えられているあらゆる気質の中で、特別問題となりその要請を必要としているものが、主イエス様の気質の内には見出せないということは一切ありません。
イエス様とその愛は最も深い神秘性と宝を持つ大洋です。イエス様は尽きることのない富の宝庫です。ひとことばで言えば、主が満ち満ちたお方であることが明らかになるためには永遠を必要とします。それが私たちがいい加減な気持ちで「語り聞かせよ、古くあれど、またなつかしきイエスのことば」と歌っている時、直面していることです。(そんなふうには)断然話され得ないものです!
しかし、私たちがお交わりを続ける数時間のうちに、その物語が示す小さな光が一緒になって、私たちの心を打ち破るかも知れません。みことばの中にこういう文句があります。「あなたの目は、麗しい王を見、遠く広がった国を見る」その二重の宣言が主には真実で正しく当てはまるものであります。主は麗しき王であります。また遠く広がる国でもあります。
主イエス様と生き生きとした結びつきを持てば持つほど、遅かれ早かれ私たちは理解不能の袋小路に追い込まれ、次のように言わざるを得ません。「主よ、あなたは私を圧倒されます。主よ、私にはあなたを理解する力はありません。あなたははるかにまさっているお方です」
そのことはもちろん一方では困難さを意味します。私たちは主イエス様の後をついて行くことも、従うことも理解することもできません。けれども、もう一方で、そうでもなければ私たちは自分の小さな心で考え完全に理解できる、「小さな」キリストしか持たないだろうということです。そうなんです。主イエス様は完全に私たちを超えたお方です。そしてあなたと私、すなわち主の民は、もし主とともに進むのなら、来るようにとご計画のうちにあるということです。
主は私たちより、はるか、はるか遠くに達しておられます。そして私たちをそれぞれ自身から、またその私たちの考えや意志の根源から引き出されますが、私たちが進み続けなければならないことを知らせてくださるのです。私たちは立ち止まっていてはいけません。私たちは進み続けなければなりません。
(今日の箇所は以下のサイトに基づいているが、読者の便をはかり、同サイトに掲載してある文章を参考に引用箇所の前から大幅に訳出した。
http://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003020.html
なお文中出てくる讃美歌は日本語の聖歌集436番に収録されている。作詞・作曲については以下のサイトで調べ、曲も聞くことができるが、作詞者が重篤の病を経験した人であることを知る。むしろ一般には525番「かたりつげばや」が馴染み深い聖歌かもしれない。
http://www.cyberhymnal.org/htm/t/e/tellmoos.htm )
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