河辺にて 二羽たたずむも 摂理なり |
どんなことも、それが(主に)明け渡され、十字架の焼印を受けるまでは確立されないということは本当なのです。あなたはもうそれを経験なさいましたか。たとえあなたがそのことを神様から与えられたとしても、私たち自身のうちに絶えず、神様がくださったものにさからうという危険性が存するものです。私たちは神の賜物に自分の思いをすべりこませ、どういうわけかそれを自分のものとします。これが「自我」です!これが「肉」です!そうなのです。神様は私たちに神様の働きをゆだねなさいます。すると私たちはその働きを主にゆだね続けることをしないで、私たちの働きにしてしまい、用心深くなって自らのやりかたに他の人々が入ってきてその働きを奪ってしまわないかと恐れるようになります。ご承知のように「私たちの」働きという障害です。肉はそんな風にしてのしあがってき、他の様々な方面に、またつながりにまで手を伸ばします。神様が何かをしてくださる。すると私たちはこうなるのです。
この「肉なる性質」は神様が奇跡をもってなしてくださる事柄においてさえどうしても自分自身を閉め出そうとはしないのです。私たちは奇跡でさえ神様をほめあげるのか、それとも自分自身の肉を満足させるかのどちらかに向かうのです。神様が授けてくださることでさえ―そして恐らく神様が授けられる別の事柄を考えても―私たち自身が主に明け渡し、自らが自我の「死」の刻印を受けるまでは決して何も確立されないし、確信にいたることはないのです。自我が神様のために生き、神様に向かって生きてはじめてできるのです。そうするとたとえどんなことがあっても私たちはそのつながりのなかで神様のために、また神様に向かって生きるようになります。十字架が万事につけ神のいのちの方法です。immediately the Cross is nullified by this thing upon which the Cross says, "No, No!" we counter the life of that thing, we strangle its life, we limit its life.私たちは前進を妨げるだけでなく神様が増し加え与えようとされていることを小さなものに変えてしまいます。なぜ、神様は私たちに増し加えることがおできにならないのでしょうか。その答えは以下のもので明確であります。
それは人がこの神の働きに参加するときにどうにかしてその働きを自らのものにしてしまってきたことです。十字架はそのことをいい加減にしないで、これまでも神様に明白かつ完全で自由な道を与えるように(私たちを促)してきました。
(By T. Austin-Sparks from: The Cross and the Way of Life - Chapter 4 から引用しました。題は引用者が勝手につけました。この文章はオースチン・スパークスによる一種のデボーションサイトだと思われます。本日のところはどうしても訳せず、相当意訳になっています。英語の堪能な方は直接上のサイトをご覧下さり、確認されますように。また文中の英文は訳せなかったところです。ご教示をお願いします。)
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