2011年1月25日火曜日

上にあるものを求めなさい

通い慣れし 小学校時代の 通学路 (2011.1.24故郷にて)
もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。(新約聖書 コロサイ3:1)

心が完全に神にとらえられている人にむかって、「これはあきらめねばならない、あれもあきらめねばならない」と決して言う必要はありません。そのような主とともにいる人をそのままにしておきなさい。そのようなものはなくなることがわかるでしょう。主に引き寄せられている(人の)心を見るのは大変うれしいことです。その行く末を心配する必要はありません。あらゆる不安は心が完全に主から離れるところにあります。

テサロニケ人に宛てた使徒の二つの手紙は喜びに満ちています。彼は彼らをことごとく思い出すごとに主に感謝しました。彼は彼らのことをよく言ったり、言葉を使ってほめそやす必要はありませんでした。なぜなら、単純なことに、彼らは「生けるまことの神に仕えるようになり、イエスが天から来られるのを待ち望んで」、この世から神に心が向いており、何ら心配する必要はなかったからです。ところが目をコリントの人々に転ずるとたくさん問題がありました。荒野の状態、二心でした。

よみがえりの土台により神様は(人を)世から主のところに引き出す機会を与えてくださいます。そのことが意味していることをすべて私たちは学ばねばなりません。もし私たちが主とともに行動するなら、私たちは決して予期しない事柄に出くわすことでしょう。私たちは神様が存在しているということほど明確に定められている事柄はないのですが、一瞬間たりとも疑問を持つことがないように望まれ挑戦されるようになります。過去において事柄は神からのものでないものはなく、ある程度神からのものだけでした。ところが今やそれらをはるかに越えたものがあるのです。

そしてこれ以上何かをし続けないなら、善が最善の敵となります。それゆえ私たちは価値を比較し、良いことを離れ、より良いことに向かわねばなりません。そしてそれからのちには、より良いことから離れ、さらに最善へと向かわねばなりません。私たちが本当に主とともに歩き続ける時に、はじめて事は起こり得るのです。しかし、そのことは先ず第一に次のことを求めています。私たちがこれまでもはっきりさせ、言って来たことです。「私は自らを捨て、復活の土台の上に立ちます。」「私は自らを捨て、完全に主とともにいます。」

(今日の部分は英文が難しく判読できないところばかりでした。読者が自ら下記サイトに当たられ直接確かめられるようにお願いします。また誤訳を指摘し正しく直してくださることを是非お願いします。
http://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003023.html  

なお、この記事を投稿した後に今日のオズワルド・チェンバーズの霊想を見たら、次の記事が載っていました。ひょとしてこのことも上記の記事と関連があるかもしれないと思い、以下に載せることにしました。お読みください。これは湖浜馨氏の訳です。


1月25日 神に機会を与える

恵みをもって召してくださった方が・・・よしとされたとき。(ガラテヤ一・一五、一六)

私たちは神の働き人として、神に機会を与えることを学ぶ必要がある。私たちは身を引き、神に十二分に働かれる余地を与えるのである。私たちは細かく計算し、見積もって、これこれのことが起こるだろうと言う。そして、神の介入される余地を作ることを忘れてしまう。
神が私たちの集会に、想像もしていなかったような方法で介入される時、私たちは驚くのではないだろうか。神はつねに特別な方法で介入されると考えてはならない。まず、神を尋ね求めよ。これが、神に機会を与える方法である。
神が臨まれることを当然のこととして期待せよ。しかし、ある一定の方法で臨まれると思うな。神について学べば学ぶほど、神はいつでも介入されることがわかる。神はこれ以外の方法では働かれない。神はよしとされた時、突然、あなたの生涯に臨む。しかし、私たちはこの事実を見逃しやすい、
だから、神と絶えず交わり、あなたの信仰生活を保て。そして神がいつ介入されてもよいように、神のために十二分に働かれる余地を作れ。そして、待機せよ。)

0 件のコメント:

コメントを投稿