鷺どのの 歩く姿見る 楽しさよ 根城おそえり 迷カメラマン(自宅近くの用水路にて) |
(私たちは上から新しく生まれることによって神のいのちをともに体験するものとなります。聖書が「永遠のいのち」と呼んでいるものは新生した者がいただくユニークなものですが、どんな人間も生来の力でそのいのちを持つことはありません。真の霊的な体験がすべてたどる道はその永遠のいのちが増大し発展するためにあります。そしてこのことはこれまで私たちが見てきたように死と復活の危機や繰り返しを通して特別起こります。主のこどもたちに対するすぐれた目的とは何でしょうか。それは主のこどもたちがただ主のいのちだけで生きるようになるためであることは疑いありません。この目的のために主は生来のいのちを益々取り除かれるのです。)
私たちの主は、復活なさった後、よみがえりの状態にあり、その特別なご性質のゆえに、もはや自然の限界に支配されないものだということを指摘しましょう。時間と空間は今や主を支配しなくなったのです。この原則が今や働き、当てはまるのです。復活のいのちの価値やエネルギーにあって生きる者は「永遠」のこどもであり、「全宇宙(を支配する)」こどもです。祈りは地の果てにまで届きます。私たちの存在や行為は重要になり、全宇宙的、永遠の次元のものになりました。限界はありません。
それですから、神に愛される者にとっては、もはや自然のいのちが基準にはなりません。強いか弱いかは問題ではありません。強さが、どんなに知的なものや道徳的なことや社会的なことや肉体に関する強さであったとしても、霊的には何ら影響はありません。弱さが不利になることはありません。私たちは主のいのちにあってだけ生き、仕えるように召されているのです。主のいのちだけが唯一力があり確かなものであります。
かしらの真実はそのまま肢体の各人の真実にあてはまります。ぶどうの木の真実性はそのまま枝の真実性であります。最後のアダム(イエス・キリストのこと)の真実は主の民に加えられている全員の真実になります。「キリストの復活と同じようにつぎあわされているなら」(ローマ6:5)と使徒は言いました。その上で彼はそのことがもっともっと自分の体験となるように次のように祈りました。「私がキリストを知り、その復活の力を知ることができますように」(ピリピ3:10)それが御霊に導かれたすべての真のキリストに仕える者の祈りとならなければなりません。
(引用はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003029.html からである。 In The Likeness of His Resurrection からの抜粋である。)
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