2011年1月30日日曜日

信仰の創始者・完成者であるイエス

ドイツ・フィリンゲンの教会扉に刻まれていた銅版絵
「人間をとる漁師にしてあげよう。」と読める?
イエスから目を離さないで・・・(新約聖書 ヘブル12:2)

ヘブル人へのこの手紙にはパウロの生き生きとした息吹が感ぜられます。「イエスから目を離さないで」と。この手紙を実際に誰が書いたとしても、パウロ(の人柄)が文章に影を落としています。彼の影響が至るところにあります。確かに彼はイエスから目を離さないように心がけていました。

このことは私たちにとっても学ぶべき大変重要な課題であります。クリスチャン生活において何度も何度も学ばなければならないことです。もし私たちが主イエス様以外のものに目を奪われるなら、全く(生活は)めちゃめちゃになってしまいます。

ところで、神の聖徒に対しては十分注意しなさい。私はあらゆる神の聖徒を疑いをもって見ることを勧めているのではありません。また「ご存知の通り、彼は完全でない」と言うべきだと言っているのではありません。尊敬しなければならない人は尊敬すべきです。しかし、あなたの信仰は、たとえその人がどんなにいい人であっても、その人の上に築き上げられてはならない(と言いたい)のです。

それに、私たち自身に関するなら―いいですか、私たちは他の何物よりももっと自分自身を見る傾向があるのじゃないかと思います。このことは本当のクリスチャンの課題の一つです。私たちは絶えず自分自身や自分に関わる事物から目を転ずる必要があります。この自我ほど私たちを落胆させるものはありませんし、私たちを誤らせるものはありません。私たちの判断はすべて間違います。私たちの思考もまたそうです。いずれも神の考えではないからです。

私たちは目を自我から転じなければなりませんが、空(くう)を見、空しくなるのではありません。「イエスから目を離さないで」という文章はそのあとどのようにして終わっているか知っているでしょう。その文章は「信仰の創始者であり、完成者であるイエス」となっています。

あなたが信仰を始めたのですか。あなたはクリスチャンになりたいと決めたから今クリスチャンなのですか。そうなんです。主はあなたが決心したから、あなたを助けるのです。(と言うのですか)

とんでもありません。主がこのことを始められたのです。「私を見つけたのは主でした。私に手を差し伸べて下さったのは主でした」と言うことができることが喜びとなっていないのでしょうか。主が次のようにおっしゃることはまことに真実です。「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選んだのです」(ヨハネ15・16)主は信仰の創始者でした。さらに手紙は言います。主は信仰の完成者である、と。主は必ず信仰を完成なさいます。

私たちが天国に行ったら、かつて経験したことのない驚きで一杯になるでしょう。私たちは他の聖徒と見合って言うことでしょう。「やあー私たちはここにいます。素晴らしい部屋ですね。どのようにしてここに来たかわかりません。こんなところには決して来れないと何度も考えましたよ。しかし、今ここにいるんですね。」そうです。それはイエス様が(信仰の)完成者であるからです。

愛する友の皆さん!このことを信じてください。あなたが落胆し困難に会っている時、目をイエス様に向けてください。イエス様は言われました。「わたしのいる所に、わたしに仕える者もいるべきです」(ヨハネ12:26)、と。たとえ何度奇跡が起ころうとも、主は私たちを天国へ連れて行くために働いてくださるのです。そのことを信じてください!両手でしっかりとその真理をつかみ、主を信じてください。そうすれば栄光に嘉(よみ)せられることを体験なさるでしょう。

なぜならそれこそこの手紙が示す偉大なものの一つであるからです。「多くの子たちを栄光に導く」(ヘブル2:10)とあります。そのことはあなたにも私にもあてはまるものなのです。

(引用はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003028.html
 The On-High Calling Volume 1 - Chapter 9 からの抜粋である。)

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