しらこばと(?)の群れ 古利根川にて |
私たちの生まれながらの性質は、私たちが走ろうとしている競争において障害になる。それらはいつも様々な議論、様々な関心、それに様々な方法となって現われるのだ。「コリント人への手紙」が教会にもたらされた時、教会は明白な罪を追いやってはいたが、その方法たるや新しい支配を求めるべきところに古い生まれながらの思考や理性で処理していた。それらはいずれもこの世に属していて、神様の御霊によるものでなかった。しかし使徒(パウロ)はこのような彼らに「しかし、私たちにはキリストの心があるのです」(1コリント2:16)と忠告し、生まれながらの肉の性質と霊との間に十字架を認めるように促した。私たちは古い生まれながらの性質を捨て去る時はじめてキリストの満たしを経験し、もっともっとキリストの心のまま前進できるのだ。万事につけ、それはあらゆる判断、あらゆる推論、あらゆる分析、あらゆる評価においてということだが、私たちは次のように主に尋ねなければならない。「主よ、それはあなたの御思いですか、それとも私の思いですか」と。私たちは時々自分が明確な決断を下す最強の基盤に立っていると考える。そして自分にはすべての証拠がある。だから確信できるのだ、と。しかし私たちが間違っているのかもしれないのだ。
コリントの教会に手紙を書いた人(パウロ)は自身の深い深刻な経験から、こういう場合のことを知っていた。使徒の働きの中で「私自身も、ナザレ人イエスの名に強硬に敵対すべきだと考えていました」(使徒26:9)と言っている。タルソのサウロ(後のパウロ)ほど自らの進む道において強い確信を持っていた男はいなかった。彼がキリストのところに来た時起こった大革新の末、彼は「私はこれまで自らの考え方の根本からことごとく間違っていた」と言わざるを得なかった。その告白をしてからというもの、前進することが出来た。それというのも、彼はつねに自らの考え方を十字架に釘づけされた主の判断に従おうとしたからである。これが霊的な進歩の道である。私たちが自分の意見や自分の推論を大切にしている限り、たとえそれらを他の人々が支持していても前進は出来ないであろう。私たちは自らの生まれながらの性質をキリストの心に従属させることを学ばねばならない。このことは私たちが霊的な進歩に関心を持っているならもっとも重要なことである。そして霊的な進歩とはキリストが私たちのうちでつねに増し加わり大きくなることである。これ以外に道はない。
(By T. Austin-Sparks from: God's Purpose in All - Chapter 1 の今朝の項目から私訳を試みました。)
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