2011年6月10日金曜日

主の心を心として

私は祈っています。あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、あなたがたが、真にすぐれたものを見分けることができるようになりますように。またあなたがたが、キリストの日には純真で非難されるところがなく(新約聖書 ピリピ1:9~10)

私たちは指示と命令を望んでいますが、主は私たちが「心」を持つことを望んでおられます。「あなたがたの間では、そのような構えでいなさい」(訳注ピリピ2:5)「私たちには、キリストの心があります」(訳注1コリント2:18)キリストは意識あるお方です、だから聖霊によってキリストは私たちのうちにその意識を与え、伸ばされたいのです。霊感された言葉によるならば、「彼の油がすべてのことについてあなたがたを教える」(訳注1ヨハネ2:27)のです。私たちは召使いではありません、子なのです。命令はそのようなものとして召使いに対してあるのですが、心は子に対して言われるのです。
 ところが、今日主の民の間は恐ろしい状態にあるのです。かなり多くの人がほとんど完全に自分自身にとって外形的・形式的なことがら、すなわち自らの助言や導き、自らの滋養や支え、自らの知識、自らの恵みの手段において生活しているからです。)

個人的で内面的な霊的知性は大変まれなものになっているのです。敵が妄想や、偽物、虚偽表示で大変成功するのは不思議ではありません。そのようなものに対抗する私たちの最大の安全装置は訓練を通して主を深く知ることであります。

主を正しく知ることは、他のものが運び去られる時でも不動であることを意味しています。火の試練をくぐり抜けることのできるびくともしない不動さです。主を知っている人は自分自身の手を下し問題を解決しようとはしません。このようなものは愛や忍耐に満ちており、すべてのものがメチャメチャになるように見えても落ち着きをなくさないのです。確信はこの知恵の根本的で不可避な産物であり、主を知る人々にあっては、いのちの最深奥部から語ることのできる静かで平安に満ちた強さであります。

私にキリストにあって「知恵と知識との宝がすべて隠されている」(訳注コロサイ2:3)ものをあげさせてください。主の私たちに対する御意志は、私たちが絶えず成長する認識に到達することであり、すべての満たしを持つ主を個人的に体得するようになることにあります。私たちはあらゆる主御自身に対する主の御意志とそれらの最大の必要に関する事実をただ述べて来たに留まります。この主に対する本当の知識に欠けていることが教会の歴史において最大の悲劇の要因であることが明らかになってきました。

このことを欠いているが故に、あらゆる異常事態の暴動はクリスチャンの人々の間で恐ろしい弱点を明らかにしてきたのです。失敗の波、いくつかの新鮮で人受けする許容に対する動揺、恐怖を伴う大きな戦争と信仰の多方面の試み。これらすべてが多数の人々を押し流し、彼らを霊的破滅のうちに置き去りにしてきたのです。

これらの事柄はいつも身近にあります。このメッセージは主の民が主との非常にはっきりした関係を持たせようとして書いて参りました。その関係があれば、主は人々が主を知るようにあらゆる手だてを尽くしてくださることでありましょう。

(今日の箇所は On Knowing the Lord の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003217.htmlです。) 

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