ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。(新約聖書 ヨハネ9:25)
もし、あなたがたと私がある段階に達していることに完全に満足しており、私たちがまだ全然経験していないことが全く必要だとは感じないのなら、果たして前に進むのでしょうか。もちろんそんなことはないのです。私たちが進み続けるためには、主は私たちが主を見、新しい方法で主を知るのに必要なところへ私たちを連れて行かねばならないのです。そしてそのことは目的地に行くすべての行程でまさしくそうであるに違いありません。
主が私たちの目を開かれるように、見ること、何度も繰り返し見ることの危機の連続があるのです。すると私たちは以前見えなかったのに今は見えますと言うことが出来るのです。そのようにしてそれは私たちの研究や学びや私たちの本の知識ではありません。私たちの心の目に光がともされることによる、知恵と啓示の御霊によるのです。権威に着目させることになる、その見えるということは、それほど必要不可欠なものなのであります。それが今日要求されている要素であり、特性であります。ただ単に見るために見るのではなく、新しく権威に心を留めさせるものであります。
今日権威の声はどこにありますか。本当に権威をもって話す人はどこにいますか。私たちは生活のあらゆる分野にわたって、権威の声に大変恋い焦がれているのです。教会は霊的な権威の声を渇望しています。あわせて預言の欠乏に飢え渇いています。「主はかく語り給えり」と。世界もまた権威の欠乏に飢え渇いているのです。その権威は見た人々とともにあるものです。生まれながら盲目であった人が見えるようになった証、すなわち「ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」には、全イスラエル、すなわち伝統と教えに満ちたイスラエルにまさる権威があります。
そしてそれがそのような重さをもたらされた主イエス様にまつわることがらではないでしょうか。というのは「イエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。」(マタイ7:29)律法学者たちは権威者でした。もし誰かが律法の注釈を願うなら、人々は律法学者のところに行ったのです。しかし主は権威あるお方として語られ、決して律法学者たちのようではなかったのです。その権威とは一体どこにあるのでしょうか。まさしくその権威をもって万事について主は言明できたのです。私はそのことを確信します。それは私がそれまでに読んだり、話を聞いたり、学んで来たことではありません。それは力をともなうものです。そしてそれは次のことです。
私は知っています! 私は見たのです!
主は私たちのすべてを目が開かれた者としてくださるのです。
(今日の箇所は Spiritual Sight - Chapter 1 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003263.htmlです。)
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