2011年7月8日金曜日

復活のキリストの意味と価値を知る重要性

もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。(新約聖書 ローマ6:5)

(復活のキリストは人の内側の表現、体験にとって、真実なものとして示されます。主のよみがえりのいのちは私たちのうちにあるのです。キリストは主のいのちといのちの御霊によって私たちのうちにおられるのです。復活のキリストの内面的な意味と価値は信じる人々のうちにある主のいのちの再現であります。それが私たちのうちにキリストのいのちがあらわされるということです。
 私たちのうちに働くその再現の法則は私たち自身が死なねばならないことであり、死に場を受け入れ、その結果あらゆる個人のいのち、関心がまったく捨てられ、放棄され、キリストがすべてとなることです。それがパウロが「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」(訳注:ガラテヤ2:20)と言った意味です。ここには生み出されるキリストが言い表されています。それは、キリストのものでないあらゆる生活が十字架に差し出され、死んでしまっているからです。主イエスの墓に入り、その墓から出てよみがえったのです。)

私たちはキリストとその死にあって一体であり、私たちは終わり、キリストが始めとなり、始めからキリストがすべてとなるのです。そのことは基礎的なことであることはもちろんですが、漸進的なことでもあります。その意味するところは包括的でありますが、また漸進的でもあるのです。私たちはそのことの満たしを行為において受け入れねばなりません。今や死せるキリストとの結びつきを受け入れて、そのことをかなり明確にし意識的な立場を取らねばなりません。このことは結果的にもはや私たちのおるところがなくなり、私たちが証言する時はいつでも殴られたり、無視されたり、話すことが認められないということであります。私たちは主に仕える決められた行為においてすべてのためにそのことを一旦は受け入れねばなりません。それ以来、自分から出るすべてのものはその十字架とともに容赦もなく倒されるようになり、自分が出て来る時はいつでも立ちおおせなくなります。

私たちは一旦全てに対してその決着をつけ、主とともに包括的で完全な基盤に立ってことを処理した方が良いのです。主がその真実性においてご自身を意義たらしめられることでしょう。それは私たちの理解力でもなく、把握する力でもなく「私」が認められないことだと思うことでもありません。そうではなくキリストが、私たち自身の知識の尺度を通してではなく、私たちについてのキリストの知識によって「私」だと知っておられることによるのです。かつて私たちの考えや想像のうちにあった「私」よりも、もっとたくさんのものとして明らかにされることでしょう。その時、私たちが知っている自我ではなく、キリストが徹底的に知っておられる自我が、その十字架の力のもとに組み敷かれるようになります。そしてこのことを私たちは行為において受け入れるのです。

(それですから、そのことは漸進的になるのです。日々死ぬこと、つねに死にかけている体や、主イエスの死にあって耐え続けることは、結果的にイエスの死が毎日自分が否定されることによって働くことではありますが、私たちの最初の受容の中心点であるのです。しかしそのことが起こるとき、つまり十字架に対してその犠牲を伴う明け渡しが起こるので、キリストのいのちが再現されるのです。キリストご自身のいのちの力によってキリストは盛んになられ、私たちは衰えて行くのです。
 私たちは自身が捨てられるような挑戦に出くわすことは決してないでしょう。その挑戦があり、それに対する応答がなされるのはキリストが増し加わる機会のみであります。そのことを求めるすべてのことを私たちは、復活のいのちにある主のもっと大きな量りである、主の死の意味するところを新鮮な尺度で受け入れるのです。
 その結果、復活のキリストの意味と価値は内面的ないのちとして再現されるのです。そしてそこには他のどんな道もないのです。新約聖書によればそれ以外にキリスト者を生み出す道はないのです。主御自身のものである仲間を増やすことは外側から何かが加わることではありません。十字架に近づき死ぬことによってであります。それが唯一の道です。キリストとともに死に、キリストとともによみがえらされた以上のいかなる根拠をも持たないのがキリスト者であります。この根拠のないキリスト者はいないのです。)

(今日の箇所は The Risen Lord and the Things Which Cannot be Shaken - Chapter 11 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003262.htmlです。相変わらず訳がごたごたしていますが、非常に重要な内容であることに変わりはありません。前後訳を増し加えましたので、この文章は11章中の「The meaning and value of Christ risen as an inward life」の全訳です。右側のラベルでこの項目「The risen lord and the things which cannot be shaken」を見ていただくとおわかりのように、今回の訳で8回目の登場です。全文通して読む必要があることを示されています。読者の中で余力のある方は是非挑戦なさってください。)

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