2011年7月16日土曜日

ああ、私たちは何を大切にしているのでしょうか

浅間山の噴火による火山岩を積み重ねたものだろうか、何気なく気になってパチリ
人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。(新約聖書 マタイ19:26)

できないということを眺める上で二つの道があります。すべてのものはあなたが不可能だと考えていることに依存するのです。それは事態の上に立っているか、それとも神の上に立っているかです。人にとって可能でないことは神にとって可能であります。(マタイ19:26)そして神はこのような不可能な事柄に通常の方法で答えられます。というのはそれは通常の方法であるからです。異常な方法はしるしや不思議や極端なできごとであるものです。私たちの感覚に示威的であります。しかし、キリスト者生活にあって通常の方法は、死の働きに打ち勝つ神のいのちが絶えず超越する方法であります。

その奇跡は私たちが認識する以上にはるかに一般的であります。あなたはすべてのものが霊的ないのちに反対している霊的な死の領域で、生活し、働かねばなりません。そしてそこにはあなたを支えるものは何一つとして全然ありません。しかし主にあってそこにいるのです。その雰囲気によってもまたそれらの状態によっても飲み込まれたり、破壊されないのです。それが沈黙のうちに働く神の奇跡です。その時、あなたのいのちは、すべての人のいのちと同じように、死、霊的死という大きな石の存在のうちに置かれているいのちです。

私たちはそれを知っていますが、霊的に生きるように維持され生き続けるのです。それは偉大な奇跡です。日常生活の奇跡です。神が死からよみがえられた証です。

この石はすべて彼らの以前の希望を超越していることの象徴となったのです。主イエスのよみがえりにあって以前の希望が生き返させられたのではなかったのです。彼らの望みは変化を経験しなければならず、その期待も大層変えられねばならなかったのです。要点はキリストのよみがえりにともなって彼らの望みが単に再び生き返ったのではなく、それまでがっかりさせられてきた全ての希望を完全に超越したのであります。

彼らはイスラエルの一時的な贖罪を求めていたのです。だから彼らは別の光でイスラエルの贖罪を見なければならなかったのです。主イエスのよみがえりにおいて(あるいはこんなふうに置き換えてもいいでしょうか)復活のキリストとつながって、私たちの希望は世が与える全ての希望よりはるかにまさっているのです。

私たちは主の死にあって私たちの宝をちりとしなければならないでしょう。私たちにとって望みであったり期待であったり、野心であったり、外見であったりする非常に貴重であるものをことごとく手放さなければならないでしょう。私たちの大切にしている世界は小川の小石と一緒に置かれねばならないでしょう。(ヨブ22:24)

キリストとのむすびつきのよみがえりにあって、私たちが以前望んでいたものよりも、もっと多くのものが返されるのです。神はそのようです。あなたはそれは言葉であり、非常に美しく響くと言うかもしれませんが、本当ですか。いいでしょうか私は霊的ないのちと歩みをいやしくも何ほどかでも持っておられる方に訴えているのです。

あなたは疑いもなくすべてのものを手渡さなければならない深い暗やみの試練の時を通過したことがあるでしょう。非常に大切であったものを祭壇に置き、それを主に明け渡さなければならない危機に到達したことがあったでしょう。もし主がそれをあなたに戻さなかったとしたら、あなたは何らかの霊的な富、何らかの霊的に良いこと、また「そうなんです。それだけの価値があった」と言わしめる霊的な方法でもっと多くの何らかのものを、受け継がなかったですか。あらゆる消え失せた望みや期待に対する十字架を通しての主のお答えは、そして神のご性質そのもののうちにあって、墓に横たえられたものよりももっと多くのものがあるにちがいないのです。それがまさしく復活のキリストの原理であります。主は以前存在された(もし私が誤解されずにそんな言い方が許されるならですが)よりも、よみがえりにあってはるかに偉大なキリストでありました。

(主は普遍的なお方であり地方的ではありません、霊的であり、肉体によって限定されていないのです。そうです。彼らはより偉大なキリストを受け継いだと言ったことでしょう。もちろん、主は目に見える事実でより偉大なキリストではありませんでした。彼らはつねにそこにあったのだが、以前は決して理解しなかった偉大さを受け継いだのです。それが死とよみがえりの原理(つねに増大し、つねにもっと多くのものとなる)です。
 一粒の麦は地に落ちて死にます。そして多くの実が生ずるのです。以前の希望を超越するものがそんなふうにして生ずるのです、前のものが戻って来るのでなく、何かが加えられて戻って来るのです。一時は「残されるものは何もない」と言われるように思えた石が、かつて彼らが考えていた以上に巨大で大きなものを増し加える象徴となったのです。)

(今日の箇所は The Problem of the Stone の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003284.htmlです。今日の箇所を通してヨブ22:24を知りました。私は今日の写真に重ね合わせてこのみことばを反芻しました。)

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