2011年7月19日火曜日

真の福音宣教を求めて

「わたしは、もう一度、地だけではなく、天も揺り動かす。」この「もう一度」ということばは、決して揺り動かされることのないものが残るために、すべての造られた、揺り動かされるものが取り除かれることを示しています。(新約聖書 ヘブル11:26,27)

(もし私たちが論文を書くとしたら、「キリスト教」と呼ばれるものが本当はキリストにとって最大の敵であったと書くことでしょう。そのことは古く、貧弱であるものや悪いものの代わりに別のもっとすぐれた組織が重要だということではないでしょう。 中にはそれはすべておおざっぱに見れば、秩序や技倆や形式の問題であると思い、もし私たちが教会を「新約聖書」の形や秩序に戻るなら万事はうまくゆくだろうというふうに見ている人もいます。)

実際は、一定の事柄が新約聖書の教会を特色づけているのに対して、新約聖書は教会がそれにしたがって設立されたり形成されたりするべき完全な型を与えるのではないということです。新約聖書の教会にとって青写真はありません。新約聖書の教会を形成しようと試みることは、別のものと同じく合法的で教派的でかつ死んだものになるかもしれない別の組織を生み出すのに過ぎません。教会はいのちが湧き出る有機体であります。いのち自身はまさしく信ずる者に働くキリストの十字架から生ずるものです。(もし信ずる者が十字架を経験していないなら、そこには教会の本当のあらわれはいささかもあり得ないのです。)

このことは私たちを特別な地点へと連れて行きます。この近づいて来る試練の洪水から見て是非とも差し迫りしなければならないことは何ですか。洪水はすでにクリスチャンと呼ばれる非常にたくさんの人々や、あまつさえ福音的なキリスト者をも運び去って行ったのですから。確かにたった一つの答えがあります。一方では、信ずる者がみことばに「根を下ろし、地中深くとどま」って実質あるものとして、本当にキリストの身の丈にまで成長するような宣教です。このことが福音宣教を支持するものでなければなりません。そうすれば、その働きは表面的でなく、深くなり、一時的でなく、永続的になり、概括的なものでなく、本質的になるのです!

もう一方で、信ずる者が自らのキリスト教を徹底的に吟味しなければなりません。キリスト教は多かれ少なかれ、伝統であり、憶説であり、外形的な機構であり、共通に受け入れているものに過ぎないですか。それともまことに心の中の「イエス・キリストの啓示による」もの、つまり、神とともに真に歩み、キリストの知識が成長し、御霊のいのちであるものですか。神はそのことを揺るがされないものが将来存在すると言われたのです。私たちが獲得して来たものは揺るがないものとして残りますか?

(今日の箇所は Editor's Letter, Nov-Dec 1952 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003287.htmlです。1952年という年はスパークス氏にとって忘れられない年であったようです。この記事はその一年を振り返っての記事です。この年彼は、飛行機で26000キロ、その働きのために各種の集会で奉仕するために旅行したと語っています。戦後7年、宣教の歴史においても大きな転換期であったようです。文章は一部翻訳が難しく意訳につとめはしょったところがあります。ご了解ください。)

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