2011年7月6日水曜日

主とともに歩んでキリストを知ることが大切です

イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」(新約聖書 ヨハネ8:58)

(あなたは主に実を結ぶことに関して様々な方法を尋ねます。すると主は答えられるでしょう。「わたしはぶどうの木です」と。あなたは実を結ぶ木の中にいない限り実を結ぶことはできません。けれども、あなたが主のうちに住んでいるなら、実を結ぶのです。それはどんなものもそうであれば可能であるのと同じように自然なことです。主とつながりをもち続けることを知っているかが問題なのです。主を知ることが大切です。
 こういうすべてのことがらを知ることは私たちに心の平安をもたらすはずです。自分自身を包み隠さずあらわし、霊的な探求のうちに自らを殺すことができるのです。すると主はついにあなたの心に次のように言われます。「もしあなたがわたしを知りさえすれば、実は結ばれるでしょう。緊張することも、闘うことも、苦しむこともなしに過ごせるようになるでしょう。わたしがこの実を結ぶのです。わたしはあなたを通して一致と交わりによって実を結ぶのです。交わりが聖く祝福される秘訣は、ただわたしに憩うこと、わたしのうちに住まうことです」
 もしあなたがぶどうの木の枝がそれぞれ毎日実を結ぶためにうめいたり、苦しんだり、身悶えしているのを目にしたら、全く不自然なものを目にすることになるでしょう。事実としてあなたはそんなものを何も見ないのです。あなたはそこにとどまって実を結んでいるぶどうの木を見るだけです。それが私たちが絶えず信仰の休息として語っていることであります。
 信仰の休息の背後には何がありますか。あなたが、心の中で静まり、私はちょっと休みますと言うとき、自分をまだ受け身の状態にはしていないのです。信仰の休息とは主を知ること、キリストにある神を知ることなのです。というのは私たちが神と一緒に歩まされる道はキリストのうちにあることであり、キリスト抜きではないのです。あらゆる必要に対する答えはこんなふうに主を知ることであります。主の答えはすべてを含意した答えなのです。)

主が小さな言い回しの中に広範囲にわたることをつめて表現される力は驚くべきことです。主は人の必要のすべての領域を理解し、全ての人の心からの叫びに、二つの言葉からなる単純な文章、「わたしは・・・です。」で答えられるのです。

私は復活を求めて叫びます。また、主のいのちを求めたり、何かを起こして欲しいとも叫びます。満たしであったり、感情であったり、活動であったり、エネルギーであったり、「何か」を求めて叫ぶのです。主の答えは「わたしはよみがえりです、いのちです。いつでも、どこでも、それがわたしの心です」

ああ、私たちは主のゆえに「いつでも、どこでも」その主の答えどおり生きているでしょうか。主は私たちが伝わってきた主題や経験や教えから離れることを強く求めておられます。そのような道は多くの害をもたらしてきました。神の民は、いくつかのこと、経験や真理をめぐって、より大きくか、より小さくかに別れます。すべてを包含したりすべてを結びつける現実性が失せるのです。次に、主に対して様々な事態、経験、真理を取り除きなさい。

「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」「あなたは理解しないのですか? あなたはわたしが誰だと言うのですか」あなたの心を神が照らされ、長年あなたが主をどのように知って来たかを知るのです。それが主による精査が向かうところです。主は私たちの心をそこで試されるのです。

(今日の箇所は Knowing God in Christ - Chapter 1 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003247.htmlです。相変わらず誤訳がたくさんあるはずです。直接原文でお確かめください。この翻訳はあくまでも試案です。)

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