2011年7月10日日曜日
死、それが神が始められるところです
(さて、それは(死は)多くの人にとってすべてお馴染みになっている古い地盤です、しかし絶えず忘れてはならないことでもあります。それは土台です。もし私たちが完全に十分据えられた土台を持たないなら、止まることになるでしょう。)
私たちは長年主の子どもであった多くの神の子どもを知っています。彼らは主のために多く働いてきました。しかし止まるようになったのです。動きが取れなくなったのです。なぜでしょうか。どういうわけか、ある方法で、ある点において彼ら自身の何か、つまり彼らの古い自我が頭をもたげて来て、明らかになり、その道筋に入って来たのです。それは古い心のあるものや古い好みや願いや感情のあるものかもしれません。ともかくそういうものが彼ら自身の歩みにあるのです。それはその主の歩みにあるのです。
必要とされることは彼らが再び死なねばならないということです。しかし彼らはたとえどんなことであっても、それが明らかになったことに関して、きっぱりとキリストにある死を受け入れ、そのことを捨て、その罪と死の法則から解放されねばならないのです。「死んだ行いからの回心」(訳注:ヘブル6:1)それはまさしく使徒がこのようなヘブル人に言っていることです。
あなたがたは歩みを止めました。あなたがたは全く進み続けることを止めたのです。あなたがたは遥か遠くまで行き、今やある点に達しました、そして長年その位置からはほんの少しも動かなかったのです。あなたがたは土台を通過したことはなく、完全な成長に達するまで進み続けていないのです。あなたがたは一度もそれを解決したことがないのです。キリストが死んだとき、あなたがたも全てそのことに対して死んだのです。あなたがたがキリストのところに来た時、宗教的にも別な方法でも古い創造の全体系や秩序を終わらせたのです。キリストは律法の終わりであり、古い創造の終わりであり、そして、新しいすべてのものの始まりです。古い真理の繰り返しにうんざりしないでください。それらは土台として極めて重要です。そしてこれは根本的なことです。
私たちは今やそれを受け入れようと受け入れなかろうと、好もうと好まなからざろうと神の土台が有効であることを知るように運命づけられているのです。これは真理です。誰も依然として古い創造によって古い創造の水準にしばられながら、神とそのことがらに関して絶対に進むことはないでしょう。この新しいいのちの道は余りにも狭いので、私たちは自分自身を持ち込むことは出来ないのです。自分自身を背後に退けねばならないのです。
(今日の箇所は Foundations - Chapter 4 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003264.htmlです。「Death—God's Starting-place」と題する文章の冒頭部分です。そして前回のFoundationの文章の続きになっています。)
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