クチナシの花(地方庁舎前) 今や政治はどこに向かって漂流するのか |
キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放した。(新約聖書 ローマ8:2)
(私は今週小さな本を手にしました。その本の表紙の題名にかなりびっくりさせられました。恐らくあなたがたの多くの方々もその本を知っておられるでしょうね。「いつあなたは死んだのですか」その本の最初の数語を見ただけですが、著者は言うのです。「どなたにも問わねばならない不思議な質問」、そしてそれからしばらくして彼が言っているのは「あなたは主イエスが十字架で死んだのと同じずっと昔に死んだのです」ということです。
私はもちろん彼がそれについて何を言わなければならなかったか、それに続いて何を言おうとするのかわかります。それが主が私たちが受け入れるように求めている真理です。主の立場はあなたがたと私が生まれる前、つまり文字通りこの世に来る前に死んだということです。古い創造に関する限り、私たちは死にました、キリストとともに。そして、主は私たちがその立場を受け入れるまでは、私たちに言うことも私たちとともに行動することもどんなことであっても何もなさらないのです。主からのどんな人間に向かっての最初の言葉は「死んだ行いからの回心」(訳注:ヘブル6:1)であります。
すべては死んでいるのです。あなたがたがたとえどんなことであろうとも、それは宗教やその他のことであってもキリストと一体であるよみがえりを知るまでは、そうなのです。すべてのものはよみがえりのいのちにあるキリストとの交わり結びつきを知るまでは死んでいます。それが神の立場であり、男であろうと女であろうと完全な目的、他方では完全に新しい秩序の始まりに関する限り、それぞれにあらわされた主イエスの十字架が代理となるのです。パウロはこの別の秩序を「新しい霊」と呼んでいます。それは聖霊の新しさでなく、私たちの霊の新しさであり、その私たちの新しい霊が新しいものとなり、そこからあらゆる他の働きが出て来るのです。
それはパウロ自身の場合にあてはまることです。霊が新しくされることがどんなことを意味するのか例があったとしたら、パウロがそうでした。なぜ急速にパウロにそのことがやってきたのでしょうか。ある日、彼はキリストのメンバーに反対して息せき切って脅迫し殺害に及んでいます、そしてこれらのクリスチャンを粉砕しようと激情をもって出かける途中に、小さなダマスコの集まりを前にして砕かれるのです。その集まりは彼が壊そうとしていたものであり、彼の人生の残りをかけて自分の意のままにしようとしていたものでした。
それが霊が変わったということです。そうじゃないでしょうか。それが霊が新しくなるということです。そして、あなたはその大きな変化があらゆる方面にわたって明らかになったことを知られるでしょう。このパリサイ人中のパリサイ人のことを考えてごらんなさい。彼の異邦人「犬ども」にとった態度です。(ユダヤ人の目からすれば、ユダヤ人でない者はどんな者でも「犬」だったのでそう呼んでいたのですが・・・)
そんな血を受けていたこの人が、今では少なくとも異邦人をユダヤ人とともに同等に生活する者とし、自らの人生をこれらの異邦人がキリストを喜ぶようになるまで、絶えざる苦しみを経験してまで与えるようになったのを見てごらんなさい。何かが内側で起こったのです、新しい霊です!その霊だけがある面では数々の死の危機を通過し、もう一方の面ではよみがえりを経験したのです。神だけがなし得る出来事です。その霊の新しさから出ないものはすべて古い創造から出ています。古い創造が生ずるのはいつでも主イエスの十字架という通り抜けられない障壁があることを意味しています。)
どんな古い人でも、それが古い気質であろうとも、また古い判断基準であろうとも、どんなものでも全部出しましょう。もし私たちが神の子であるなら、その点で、障壁が設けられ、抜けることは出来ず、霊的な生活にあって持ちこたえ、戻ってそのことを清算しなければならないことはかなりよく知っているでしょう。それは私たちにとっては世界の他のどんなこととも全く同じ真実なのです。
その瞬間私たちは依然として霊的に立ち、炎の剣が私たちの道を横切るのです。ここにはそこに至る道がありません。それをここへ持って来なさい。そうすればあなたは裁かれます。神の裁きに直面するでしょう。あなたは破産するのです。それは神がそのすべてを随分前に終了されたという事実に反対するものとしてあがってきます。私たちは神の立場を受け入れねばなりません。私たちがそれを受け入れてしまうその時、事態は解決し、その解決は引き続きなされて行くのです。私たちはその立場を取り、その真理を受け入れるのです。
私たちは古き創造である自分自身を現実に終わらせることは出来ませんが、積極的に言うことが出来ます。私は神がみなされるようにみなします。いいでしょうか、それから進んでいくにつれ、神がすべてを死のもとに置かれたことを悟るでしょう。死はそこで休息するのです。そしてもし死がそのかしらをかつてのように示すなら、再び死の宣告に出会います。
もし私たちが主のために生来の強さでもって働き始めるなら、私たちは死に出会い、間もなく私たちの生来の強さは死の軍門に下ることでしょう。もし私たちが神のことを生来の判断力を用い始めるなら、私たちは進むことが出来なくなり、間もなく暗礁に乗り上げ、到達できなくなることでしょう。私たちが神のことに生来の何かを持ち込むことは何かの新しい結果でなく古いもの、古き創造の上に休息するようになされていた死に反抗することでしょう。
私たちがいのちの新しさにあって動き、神の聖霊によって働き、御霊にしたがって歩いている限り、死はなくなり、いのちにあり、たとえどんなに生まれながらにしてハンデがあり弱くっても私たちは御霊にあって進むように目的地にまで到達できます。「キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放した。」私たちはもはや自由なのです。
(今日の箇所は Foundations - Chapter 4 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003249.htmlです。相変わらず文章が難しいです。ふさわしく訳せません。原文からどなたか適切に直していただけないでしょうか。その代わりに( )書きで示しましたものは原文の前にある文章で、訳を付け足したものです。比較的に分かりやすい文章です。小さい文字ですが、こちらの方をよくお読みになり、スパークス氏の文意を少しでも掴んでいただきたいです。この文章全体はWhen did you die?という題です。)
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