私は大きな苦しみと心の嘆きから、涙ながらに、あなたがたに手紙を書きました。それは、あなたがたを悲しませるためではなく、私があなたがたに対して抱いている、あふれるばかりの愛を知っていただきたいからでした。(新約聖書 2コリント2:4)
(それがこのことば(訳注:suffering?)の心髄にある正しい考えであります。苦しみを通して私たちのものとなるものがあるからです。そうです、それは主のものなのです。そして、それが主の恵みのすべてでありますが、同時に私たちのものとされるのです。
そしてそのことは私たちが苦労を重ねたことは私たちを非常に用心深くするという意味が確かにあるのです。何かのために心を痛めることを通して人は清くされます。苦しみや痛みであった子どものことを取り上げてみましょう。全然子どものために心を痛めた経験のない他の人はその子についてあらゆる欠点を見、すべての批判をし、良いか悪いか判断し、達観し、言いたいことを言うことが出来ます。しかしその子の母親は全くそのようなものはほとんど見ないでしょう。母親にとってはその欠点などを超越するものがあるからです。
「あなたはそうおっしゃるかもしれませんが、この子は私にとって大切な子です。私はこの子のために苦しんできました。この子は私の子です。心から愛する子です、骨折って育てた子です。私にはこの子の欠点が目につきますが、それら全部をおおうものがあるのです。苦しみから生まれた心配りの愛があるのです。」
皆さんは私が何を言おうとしているかお分かりでしょう。)
主にとって貴重で、ご自身の民の財産となさりたいと思っておられるものは何もありませんが、それに対する苦しみはあるでしょう。その意味ではそのことを批判する人が苦しみ、苦痛が降り掛かって来るとき、それは初めて彼らのものとなるでしょう。
もし皆さんが事態から切り離され、証や神の働きから切り離されるならあなたは好むままにすべてを批判できます。あなたはそのことと内面的に心のつながりをもっていないので、それを批判するのです。しかし、もし皆さんがその渦中にあり、悩んで来たのなら、また皆さんが関係する犠牲の大きいことだったら、全ての失敗や全ての欠陥以上のものを見ているのです。そのように批判し判断し欠点をあげつらうことのできる人は苦しみにあった経験のない人です。
一方で私たちはあらゆる用語やあらゆる教理やあらゆる真理に精通しているかもしれません。そしてそれは聞いたものであり、まさしく客観的であるかもしれません。私たちはそのど真ん中で生活し、そのことに馴染んでいます。しかし主が私たちのものとなるためにもしそうならなさりたいことは問題を通して私たちが苦労することであります。主は深い内面からするやり方で私たちの心とつながりを持たれたいのです。その結果私たちの誰も次のように言うことは出来ないでしょう。「私はそのことについて全部知っている、そのことについては全部聞いてきたのだ、そのことについてあなたが私に話すことが出来たすべてのことを話すことが出来た」と。
主は、そのことに関しては苦労を通して私たちのものとなるように、犠牲を払って、深いところで痛みをもって、大いに働かれ、その結果私たちは新しい立場に移されるのです。私たちは眺めていて批判するだけの傍観者ではありません。私たちは内側にあり、用心して防御しているものです。私たちはそのことにまさる愛を持っています。苦しみは大きく人を清めます。苦しみは自我を壊します。苦しみはそれが悩みの大部分の原因である利己心を壊します。苦しみをとおして私たちは神から来るものに対して公平な態度をもって接し用心深くなります。そうです。苦しみは人を清くし、この深い内面的なつながりを持つのです。
苦しみは他の特徴をも与えます。それらの特徴とは私たちが欠点に左右されたり、批判的な態度を持つ人になり得ないということだったり、たくさんの罪をかばう愛のあるもとなったりすることです。私たちは一緒に苦しんできました。一緒に苦しむ時にどんなに多くのことが乗り越えられることでしょうか。
(一緒につらい体験をしてきました。それも恐らく何年もでしょう。火の中にも一緒にいました。愛があります。苦しんだからともに奮起するにすぎないのだとする心配りがあります。人々をして彼らは他の人々が必要なのだろうと言わしめるほどです。)
(今日の箇所は The Eternal Reward of Labour and Suffering の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003276.htmlです。これらの文章は5頁ほどの短文ですが、それぞれ含蓄のある内容を持っています。いずれ他日再び別の箇所が引用されて来ることでしょう。その時を楽しみにしたいと思います。念のため文章全体の引用聖句を示しておきます。民数記27:1~7,ヨシュア記15:13~19,ローマ8:17がそれです。一番訳出に困った単語はjelous,jelousyです。ここではあえて「ねたみ」を採用しませんでした。ご了解ください。)
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