主に信頼する人々はシオンの山のようだ。ゆるぐことなく、とこしえにながらえる。山々がエルサレムを取り囲むように、主は御民を今よりとこしえまでも囲まれる(旧約聖書 詩篇125:1)
(この福音書におけるこういう特徴の一つに、「山」という言葉の頻出があり、山が度々視野に入れられていたことがわかります。もう一つの特徴は天使の活動と働きです。こういうことは少なくとも上からの何か、地上を離れる何か、原理的に力があり天と結びついている何かを暗示しています。山の頂上は型においても形態においても天とのつながりがありますが、天使の訪れや働きも天とのつながりを意味します。そのことは私たちが神の子にとって大変重要で必要な霊的真理へと導かれる思想です。
ご存知のように「霊的力」と称していることは、上に昇り、頂点に達し、地上の引き下げる力に打ち勝ち、私たちが段々低く降りて行き、ついには真下に降ろす圧力を征服するものです。この霊的力は他のどんな人よりもキリスト者に向けられるものであることを私たちはよく知っています。降ろされ、さらにもっと下の水準に導かれたり受け入れたりさせる力です。しかも、そうすると、終わりでなくさらに徹底的に下へと降りて行かざるを得ないものです。一旦下り坂に入るとそこに終わりはありません。ほんの少し下ることをゆるすと、もっと下るようになります。終わりは不可抗的に潜行し完全に落ちます。
私たちを下に引きずり降ろそうとするそのとてつもない力を意識せざるを得ません。その力は、私たちが霊的な支配を行使し、敵である悪魔やもろもろを支配するという高い水準を維持できないようにするものです。そのことを本当に知り、達し、維持される高い位置というものは要塞や強さという点で重要な要素です。そしてそれはなぜ敵(である悪魔)がつねに神の民を力づくで引き下ろそうと求めているかの理由です。皆さんは詩篇125:1から始まるみことばを覚えているでしょう。「主に信頼する人々はシオンの山のようだ。ゆるぐことなく、とこしえにながらえる。山々がエルサレムを取り囲むように、主は御民を今よりとこしえまでも囲まれる」)
山々ですか? そして、主は山々のようですか? それって一体何ですか? それは要塞です。強さです。防御壁です。そしてもし要塞化されるものに抗するものが何もないとしたら、要塞の要点とは何でしょうか。
旧約時代にもどると、民が選ばれた土地にやって来た時に、顕著なことは彼らが低い地よりも高地を占領したことです。彼らの占領した町々や都市々々や村々はそのほとんどが幾分高地のところにありました。その理由は彼らの敵が戦車や馬車を持っており、平地においては強さを発揮しましたが、山々に対しては何も出来なかったということです。それゆえに主の民の安全や警備や要塞は高地に住んでいるということによるものでした。それは一つの譬えです。
もし敵があなたを彼のレベルに置くことが出来るなら、彼はあなたを打ち負かしました。それで、彼はあなたを引きずり降ろし、組み伏せ、あなたが自分に対する神の完全な立場と御心以下のものを受け入れるようにさせなければならないのです。そしてそれから彼はあなたを元に戻すのです。それは彼が教会について非常に一般的な言葉で話かけ、教会をすませて来たことです。彼は教会をこの世のレベルに引き下げてきました。彼は教会を地上のレベルまで弱くさせ、完全に崩壊させ、分断し、その力を奪ってきました。
新約聖書において私たちに明らかにされている教会はつねに高い地歩にあります。それが私たちが見ようとしている教会です。エペソ人の手紙には教会は「キリスト・イエスにあって天にある」ものです。教会は高い地歩を歩む大きな力です。大変な防御と保護の要因であります。敵はもしあなたがそこに留まり、降りることを拒絶するなら、あなたに少しも手を触れることは出来ません。ネヘミヤはそのことを経験しました。敵が降りて来い、相談しようと言った時に「私は大工事をしているから、下って行けない」(ネヘミヤ6:3)と言いました。それが(敵である悪魔に対する)操作原理です。
(さて皆さんは今、マタイの福音書のこの場面ではエルサレムを取り囲む山々の上にいるのですよ。皆さんがここで発見することはこれらの山々のすべては教会の難攻不落の状態のいくつかの重要な要素をあらわしているということです。これらの山々のいくつかから容易に主要な原理を取り出すことが出来るのです。
マタイの5章に入りましょう。その箇所をご覧になり、一節から通過したら、私も皆さんも目を7章の終わりまで走らせる必要があります。なぜなら5章、6章、それに7章はいずれもこの山の上であったことをふくんでいるからです。)
(今日の箇所は The Mountains Around Jerusalem - Chapter 1 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003281.htmlです。この魅力的な題名の文章を通して著者は何を語ろうとしているのでしょうか。上述の翻訳はそのさわりに過ぎません。しかし長い間、常識的に知っていた「山上の垂訓」の意義がこんなところにあることを私は今に至るまで知りませんでした。まさに目から鱗の内容の作品です。)
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