あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。私たちのいのちであるキリストが現われると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現われます。(新約聖書 コロサイ3:3~4)
(十字架の主イエス様の働きは二つの観点で説明されて参りました。一方では十字架の働きは実際に完全であり究極的であったと言及しました。主は死の力を持つもの、また死そのものであるものを打ち壊したという事実です。主ご自身に関する限りそのことは完了した働きであります。神の右の座に着かれた主は死、墓、サタンが滅びに移され、もはや主に対しては何の力も及ぼさないと宣言されます。
他方で私たちが十字架の潜在的な働きと呼んできたものがあります。それはキリストはご自身においては完全で究極的なことをなさったのであるが、聖徒にあってはまだ完全で究極的とはなっていないということです。そのことは聖徒のためであったのですが、まだ彼らの体験としては完全とはなっていなかったのです。そのことは教会に関しても教会がキリストのうちにあり、そのかしらであったとしても、完了したということはやはり潜在的であるのです。 キリストの十字架の働きの結果として、そしてよみがえりという重大な結果として、永遠のいのちはもうすでに信ずる人々に受け入れられているのです。
しかし、そのいのちが勝利あるものであり、滅びざるものであり、壊されざるものであるのに対して、信者は信仰によって近づき、それを証し、それによって生き、 律法を学び、一つにされねばなりません。その勝利、その力、その栄光、その能力に関する限り、何もつけ加えることはできません。しかし、霊的な体験、霊的な生活の進む道筋は、そのいのちが代表するすべてのものや手段によって発見し、割り当て、生きることです。つまり霊的な生活と体験の道は、内側にあるものであり、上から助けられるそのいのちの価値によって、発見し生きる道なのです。)
そのことを識別あることばとして認識することは重要です。私たちは往々にして、私たちのうちにある主のいのちが何らかの方法で改善され、加えられる必要があると思いがちです。それはどのような時かと言うと、必要とされることは私たちが持っているものを発見しなければならず、そしてそれを体験によって発見することはそれに応じて生きなければならない時のことです。このいのちは主イエス様を離れたものではありません。だから私たちは決して何らかの改善の必要やキリストを完全にあるいはもっと完全にするためにキリストにつけ加えられるものの可能性をキリストに代置しようと考えることはできないのです。私たちはそのように決して考えることはないでしょう。そしてこのいのちはキリストご自身と一つであります。使徒が言いますように、それは私たちのいのちであるキリストであり、私たちの必要はキリストが私たちのうちにおられることを発見し、それにしたがって生きることです。だから、まさしく本当の意味で、私たちがいのちをもっと得ることよりも、むしろ、いのちが私たちをもっと得ることの方が問題であります。とにかくそれがいのちのはたらきの道であります。
神の秩序にあってはこのことが死が依然として支配し働いている世界でなされねばなりません。というのはこの世にあっては死を打ち壊すことはまだ明白になってはいないからです。カルバリが依然として完全な勝利を残しているにもかかわらず、死は悪魔のように存続しているのです。私たちはこの世にあって取り残されています。そして死が支配し、大きな力をもって働いているこの世にあって、私たちはこの支配的な神の秩序によって、私たちに預託されてきたいのちの価値を 証しその潜在力を発見するようにならねばならないということです。これが体験による発見であります。したがってそれはこの世にあるものと信者のうちにある いのちの闘争に変化するのです。それがいのちに対する戦いです。その戦いはそのいのちが喪失されることでもなく、また死が私たちから永遠のいのちを奪い去ることができるかどうかでもなく(というのはそれは争点ではないからです)、そのいのちの力の勝利ある表現と完全な顕現に関するものであります。それが争点であります。
(今日の箇所は The Battle For Life - Chapter 5 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003337.htmlです。)
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