2011年8月16日火曜日

キリストに支配される生活

             ききょう。(浅間サンラインロード道ばたで
キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。キリストはすべての支配と権威のかしらです。(新約聖書 コロサイ2:9~10)

(教会とは何ですか。神の考えは〈宗教としての〉キリスト教ではありません。キリスト教の組織される中心としての教会でもありません。キリスト者の教えや事業を押し広げることでもありません。神の考えはキリストがすべてであり、すべてのうちにキリストがおられるとする人々を地上に持つことです。それが教会です。私たちは自らの考えを訂正しなければなりません。神の考えにあっては教会が初めであり終わりであります。もちろん、それは主イエス・キリストが絶対的な主権を持つことをともなっていなければなりませんが。そして神がつねにもくろんでおられることはこのようなほとんど神の考えを完全に悟り、神ご自身の永遠にわたる欲求が満足となるような神の民を集めることであります。主イエスが万事において卓越しており、すべてであり、すべてのうちにおられるということです。

 神は立派な組織、いわゆる「教会」を通り過ぎられ、謙遜で悔いた心を持ち、みことばにおののき、主イエス様が礼拝されるべきお方であり、唯一の目的であるとする人々とともにおられるのです。そのような人々が神の心を満足させるのです。神にとってはそのような人々が永遠に探し求められる答えであります。神のみことばがそう言っているのをお認めになるでしょう。もう一度コロサイ3:11をご覧ください。「そこには、ギリシヤ人とユダヤ人、割礼の有無、未開人、スクテヤ人、奴隷と自由人というような区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです」そこでは彼らは「新しい人を着、その新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです」(同3:10)そこのところをよく調べてごらんなさい。そうすればこれが集められる人、教会、キリストのからだ、「いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられる」(エペソ1:23)ということがわかるでしょう。そして、そこでは、すなわち集まる人においてはもはやギリシヤ人とユダヤ人(という区別)はあり得ないのです。

 みことばに注意してください。みことばはギリシヤ人とユダヤ人が祝福された交わりのうちに入って来るとは言っていないのです。そうではないのです。あなたは教会にあっては国籍は持ちません。すべての国籍は剥奪され、今やギリシヤ人でもユダヤ人でも、奴隷でも自由人でもない、一つの霊的に新しくされた人、新しい創造を体験するのです。全地上的な違いは永遠に消え去り、一人の新しい人を体験するのです。右腕がユダヤ人ではありません、左腕がギリシヤ人でもないのです。そうです。彼らは消えて行きました。その教会には一人の新しい人がいるのです。国教会の人もウエスレー派の人もバプテスト信者も組合教会の人もその残りのすべての人が一緒になり、時間が経過してお互いの違いが消えて行くそういう結びつきではありません。それは教会ではありません。教会にあってはこれらの違いが時の経過のためにただ覆い隠されるのではありません。もともと彼らは存在しないのです。一つのからだ、一つの霊があるのです。教会は「キリストがすべてであり、すべてのうちにおられる」これであります。それを知りなさい。そうすれば教会を経験します。他の何かを教会に求め、先のことばなしになさしめてみなさい。反対になります。それによって試してごらんなさい。

 もし神の考えやその思いに沿うキリスト者生活がまさしくこのようであり、つまり「キリストがすべてであり、すべてのうちにおられる」ことが真実であるなら、あなたも私も本当のクリスチャンとなっているでしょうか。と申しますのは私たちは十字架によって主イエス様に席を譲るために出て行ったことを見て来たからであります。今やもし私たちがカルバリの道によって主のところに来たことを告白するなら、どうやらその十字架によって私たちが機能しなくなり、キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるようになったのかもしれません。

 このことについてはどうですか。私たちは世のほんの少しのことでも望んでいますか。相変わらず、主イエス様以外のあれやこれやのことに自然と心が傾きますか。なぜなら主イエス様は全く満足されたことがなく、私たちが中心となっているに違いないからです。世的なキリスト者は〈キリスト者という〉称号において矛盾します。キリスト以外に何かをほんの少しでも持つことは、カルバリを否定し、神がキリストに関して永遠に目論まれていることに反対することが中心になっていることです。あなたはその責任を取られますか。神はこのことを御子に関して永遠から決定しておられました。ですから私たちは主イエス様に属するものであることを告白できますか。しかし同時に私たちにとってキリストがすべてであり、すべてのうちにおられることが本当のこととはなっていませんか。もしなっていないのなら、何かが間違っています。否定があり、矛盾があるからです。私たちは神の考えと計画に反対しているのです。キリストがすべてであり、すべてであることは本当ですか。もし私たちがそのことに完全に一致するなら、キリストがすべてとなられます。)


ああ、これまで私たちの耳にささやき続けられているかすかな示唆、つまりもし私たちがあれやこれやをあきらめるなら、私たちは損をし、いのちはますます貧しくなり、何も残らないまでに段々狭くされていくということです。(しかし)それはうそです。それは私たちに対する神の偉大な考えに対抗するものです。私たちに対する神の考えは御子、イエス・キリスト(このお方にあって神のすべての満たしはからだをもって宿っている)以外の何ものも私たちの満たしとなるべきでないというものです。私たちにとってキリストにある神の完全な満たしがあるのです!皆さんはキリストを拒絶することによっては決してそこには達し得ないのです。もしあなたが主とともに全行程を歩みたくないのなら、生活は必要とされる以下のものになるに違いありません。私たちが主にささげ、生活の中で完全にキリストに放棄し、主からのものでないものは完全に切り捨てることにおいて獲得するものは奉仕の領域のものです。肉はキリスト者の働きを見せびらかすことを求め、そしてもし主に頼り続けるなら不安なときを持つことになると語ります。しかし神に頼る生活は絶えず愛のある生活たりうるのです。そこでは私たちが絶えず驚きとなる発見をさせるのです。

あなたは一分間はほとんど死ぬかもしれません。次に主はあなたにすることを与え、あなたは息つぎする息を主に依存して大変活動的になります。しかしこのようにしてあなたは主を知るようになるのです。それからその経験をして後、あなたはしばらくの間まるで絶望的になり再び死にます。しかしあなたは主がなさったことを思い出します。それから主は再び事をなさるのです。それですから生活は愛あるものとなるのです。しかし誰もあなたがまさしく息つぎを主に頼っていたとは想像もしないことでしょう。あなたが全く何もできなかったとき、主がそれをなしてくださるということを知ることは何という祝福でしょうか。それは人間的に見ても、自然からしても不可能です。しかし主はそれをなさるのです!(9〜11頁)

(今日の箇所は Christ - All, and In All の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003323.htmlです。この項は8.The explanation of the churchの抜粋文ですが、原文では物足りないので、最初から2頁ほど訳し加えましたので文章が少し長くなりました。)

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