また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。(2コリント5:15)
私たちは御霊にしたがってキリストを知ることができるだけです。その結果この主の摂理にあっては、私たちにとってのキリストは私たちがキリストについて知っているかそれともキリストと関係を持つことができるすべてのことは、ただ御霊にあってのみ可能だという意味で霊的です。「ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。」(2コリント5:16)
キリストは御霊にしたがって知られるのです。私たちの力は霊的なものです。戦いの武器は霊的です。すべてのものは上から私たちのところに来なければなりません。敵の一つの大きな努力、すなわちこの摂理を貫いて何度も何度も成功するものですが、それは神様のものをこの世に対する愛着、この地上に対する愛着、地上ですべてのものをひとかどのものとするために引き降ろし続けて来たことでありました。
あなたはヨハネを読んであらゆるものがどのように世に引き寄せられていないか、またあらゆるものがどのようにこの世から聖くされ引き上げられるかを知る必要があります。万物はキリストが天におられ、主の民は地上にいるが、地上にいない、地上では知られておらず、この世にあって、しかもこの世にはいない、また世に関する限り、この世にあって認められてもいず、知られもしない不思議な民という事実と結び合わされているのです。しかし、そのまさしく手段によって、そしてそのまさしくその理由、最大の潜在能力に向かって、この宇宙は知っているのです。この地上にあって霊的な隠された秘密の神の民を。
キリスト教を把握し、型にはめ、作り上げ、組織化し、具体化し、地上で何か力ある運動とすること。人が見たり、認識したり、賛同したりするようなすべての連合をともない、地上に根づくこと。この世の通常の意識に何かの存在として登録すること。そのすべてが神のみことばと正反対であり、霊的ないのちと力の正反対なのであります。
キリストは天におられます。私たちは天の御国にキリストとともに引き上げられ、移され、御座にともに着座するのです。私たちのこの世の目的は証しだけなのです。その証によって他の人たちは諸国民から引き出され、主の御名を持つ一つの民とされるのです。
(今日の箇所はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003006.htmlです。今日の英文は省略が多く訳出に難航を極めました。末尾の文章に辿り着き、やっとスパークスの真意がつかめた思いがします。読者諸兄のご指導[誤訳の訂正]をお願いします。ただ最後の文は今日たまたま家庭集会でメッセージする恵みに預かったが、そのおり引用させていただいたベック兄のメッセージ『主のご臨在が外にあらわされていくことこそが主の願い求めておられることです。』と一致する内容があり、今改めてその意味の深さを知った思いでおります。)
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