万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。(コロサイ1:16)
神様とともにあるすべてのものにとっての鍵はいのちである。私たちは認識しなければならぬ。キリストの支配権、卓越性、権能、能力 、かしらであることにともなうすべてはキリストのいのちの特権に関するものだ。キリストはいのちを着せられた神の御子である。彼は父なる神様から与えられた権利を持ち、信ずるのと同様である多くの者にいのちを賦与する。それがキリストがなぜかしらであるかの理由である。
あなたは人々の儀式をつかさどり、人々の最高権威を自認し、人々は大きなことを主張するかもしれぬが、それが何になるか。 あなたが死に直面する時、人々は何をすることができるか。しかし、死に打ち勝ついのちの力をお持ちの方を迎え入れよ。この方はこの地上にあっていかにも謙遜であろうとも、かしらであり、主人であり、主である。あなたは死を前にして世が考えられる限りの最大級のお医者さんを招くことができるかもしれない。しかし、死が襲う時、医者たちは無力である。
もし、あなたがこの世で能力もなく、訓練も受けていない、取るに足りない一人の小さな人、そしてその人が死に打ち勝ついのちの力を授けられている人を迎え入れるなら、その人はあらゆるこのような他の人々を排し、それらの人々は彼の前に無いに等しくなり、彼こそその場の主となる。
キリストはかしらである。単なる指図者でなく、いのちに関するかしらである。私たちはこの地上で大変つまらない民で、この世からは全然相手にされない者であるかもしれないが、もし私たちがいのちの満たしであるキリストを持ちさえするならば、私たちは最高位にあって、あらゆる偉大な組織や機構を無きものとする。それは霊的なことであり、キリストの影響である。伝統でも歴史でもなくまた神学理論でもなく、信仰と義をとおしていのちに関して主のご臨在があらわす霊的な力である。
(今日の箇所はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003008.htmlです。理不尽な死、人はその門前にまで行く。しかし神様を認めるまでに至らない。ましてや死が終わりでないことに思いが至らない。昨日はその「死」について考えさせられた一日であったが、まさかこのスパークスの霊想を今朝訳すことになるとは思いもしなかった。ここにも生きて働いておられる主を覚えるのは私の一方的な神様に対する片想いであろうか。本訳出は2011年に敢行した。その後、6年余中断していた。今年はその未了分を訳出して穴埋めをしながら、前に進んでいる。読者諸氏のご理解を切に求む。2017.1.27Translate。)
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