2017年1月19日木曜日

敵は私たちの自我

わたしは、自分からは何事も行なうことができません。(ヨハネ5:30)

 主の子どもたちが学ばなければならないもっともむつかしい課題の一つはどのようにして神様にゆだねるかであります。それがたとえ正しいことや神様の目的であったとしても、アブラハムがイサクをとおして学ばなければならなかった課題があるにちがいないからです。約束であろうと受け継ぐものであろうと、私たちが神様が与えられたものに直接よりかかるのではなく、信仰による平安と恐れからの解放をもって主ご自身にすがることにあります。もし私たちが主ご自身から物事を受け取ったのなら、主がお与えになるものはさらに大きな熟慮された計画をお持ちにならなければ再び取り上げなさらないという確信のもとに憩うことができます。一方では主が私たちのために決定されたことは何ものも私たちから取り上げることは出来ないということです。しかし、神様の賜物やご目的との関連で私たち自身の意志から生ずる多くの危険があります。

 第一に主にあって、そして主のために維持する代わりにそれを私たちのものとする危険性があります。このことはものすごい人間的な反抗に導くのです。それからねたみがその卑劣な頭をもたげるのに時間はかからないでしょう。ねたみは対になる疑りをともなってごく自然な交わりを破壊します。ねたみは個々人の持ち物、個々人の関心事をもっとも声高に主張しないでしょうか。もし私たちが神様のことにおいて非常に小さな部分でさえどれだけ特権を持っているか、そしてそれがどれほど主の恵みのすべてであるかを悟っていたら、私たちが主ともっとも薄いつながりを持っていたに過ぎないことを感謝するはずです。

 それからさらに私たちは落ち着いた信仰にあって、主に対するだけだとするのと同じように私たちにとって受け入れられ約束され信じられるものと考えているならば、主は見誤ることのないように私たちを守ることがお出来になるのです。神の子どもにとって、もっとも強く神の意志あるいは道だと信じていたことがそうでなく、放棄せねばならなかったと知るようになるのはまれなことではありません。もしその意志のうちに何らかの自らの思いの要素があったなら、これまでもその経験は非常に悪いことが明らかになり、苦さと疑惑の働きを残したのです。

 さらにもう一度神の事柄に関連する強い個人の心や意志はきわめてしばしば人々を律法のとりこにさせます。すなわち私たちだけが神様のご意思を知っていることをほのめかす態度に陥るのです。他の人たちもまたこのことにおいて主の導きのもとにあるのだと信頼しないで、神の家にとって大変必要な導きの一体性が壊されたり無力にされたりするのです。

(今日の箇所はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003017.htmlです。久しぶりにオースティン・スパークスの霊想にこのブログを通して向かうことにしました。2011年にすでに225日ほど誤訳をふくみながら、訳せていますので、今年はその残りを埋めて行きたいと決心しました。一人でも多くの読者が読んでくださり、ご助言をいただけますと幸いです。)

0 件のコメント:

コメントを投稿