勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。(黙示3:21)
私たちすべての者は、もし私たちがキリストともによみがえらされているなら、よみがえりのいのちを持っています。しかし、それ以上のものがあります。よみがえりの力はやがて私たちを御座にまで運ぶものですが、すべての者が御座に近づくのではありません。それは「勝利を得る者」であります。カレブはパウロのように、そしてパウロはカレブのように主の民の間にあって通例の生き方に抗しています。大部分の人は受け継ぐものに関し放棄しそこにとどまり腰を据えることに満足しました。未完成の針路、短縮された霊的進歩、神様が示され意図されたものよりもはるかに少ないものを受け取ることでした。大部分の人たちはそのコースを選びましたが、カレブは決して満足せず、大多数の人に抗して立っていました。それはちょうどいつも神様の完全なみこころを代表しない大多数の人に抗したもののようでした。
霊的なリーダーシップはつねに孤独を伴います。それがリーダーシップの犠牲です。勝利者はつねにより広範囲のキリスト者に関して言うなら、孤独な仲間であり、ほとんどついて来ることができない人と進まねばならないのです。カレブは民衆の声を受け入れることができませんでした。彼の心は余りにも主と結び合っていたからです。彼は全面的に主に従っていてキリスト者生活の一般的通常の水準ではありませんでした。カレブは神様が全き人がどうなるかをあらわしているまさに具現化した人だったと言っても良いでしょう。あなたはカレブを見る時、神様が全イスラエルがそうあるように望まれたが、全イスラエルはカレブの水準には達しなかったことを知っているでしょう。しかし、主はカレブのうちに主の心を満足させるものを得ておられます。主は一人のカレブのうちに主の完全なみこころを認め、それと同じように一人のパウロの中に認めておられるのです。
(今日の箇所はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003014.htmlです。2017.1.30Translate。)
0 件のコメント:
コメントを投稿