2012年1月16日月曜日

勝利を得る者

勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。(新約聖書 黙示3:21)

 もし私たちが復活のキリストと一つにされているなら、全ての人は復活のいのちをいただいているのですが、実はそれ以上のことがあるのです。それは復活の力であり、その結果、もしその力が完遂されるなら私たちは王座につくのですが、必ずしも全員が王座につけるとは限らないのです。それは「勝利を得る者」とあるとおりです。

 カレブはパウロのように、そしてパウロはカレブのように主の民の間にあるもっと一般的 な歩みに対抗したのです。大多数の人々は嗣業に関して、かなりのものを持ち、その状態にとどまることに満足していたのです。つまり未完成な歩み、削減した霊的進歩、神が指し示し意図されたものにほど遠いものを受け入れることです。大多数の人々はその道を選んだのですが、カレブは決して満足せず、神の完全なみこころをあらわさなかった大多数の人々にこれまで反対して来たように、つねに彼らと対抗したのです。

 霊的なリーダーシップはつねに孤独が伴います。それがリーダーシップが払わねばならない犠牲です。勝利者たちはより広範囲のクリスチャン世界に関する限り、つねに孤独な交わり、誰もついて来ることができない状態で、続けねばならない交わりがあるのです。

 カレブは俗受けする声に耳を傾けることができませんでした。彼の心は余りにも主に引きつけられていたからです。彼は全面的に主に従い、クリスチャン生活の普通の一般的な標準とはならなかったのです。カレブこそ神がすべての人がそうあるようにと意図されていたことをすべて体現していたと言っても良いでしょう。カレブを見ると神が全イスラエルに神が望んでおられたことがわかりますが、同時に、全イスラエルがカレブの水準に達し得なかったこともわかります。しかし主はカレブのような人に心から満足されます。主はカレブのような人に主の完全な考えを実現されますが、同じくパウロのような人にもそうされるのです。

(今日の箇所は Filled Unto All the Fullness of God - Chapter 14 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003014.htmlです。)

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