サイネリア 喜びという 花言葉 |
親愛なる皆さん。もし何らかの真理を知ったためにあなたが自分自身に目を向け、内省的になり、霊的な点で自分のことばかり考えるようになったとすれば、その真理たるやまちがって理解されたと言えるでしょう。あなたはそのことのゆえにもっとも霊的な立場にいると言うかもしれませんが、あなたの理解が全く間違っているのです。
キリストが十字架でなした偉大な働きは決してどんな人をもみじめにさせるために目論まれたものではありません。もちろんそれは言わないですむことです。しかし主を信じた後も、自分たちの生活のうちにある罪の問題を通してみじめになっている人がたくさんいます。私はその数が増えることを恐れる者です。いつも、もっと完全な啓示やもっと深い真理(それをたとえ完全な成長に進む領域と呼ぼうとも)とこのような内省的な事柄との間に大変明確な一線を引いていただきたいものです。
ある人々はもっと霊的になるためには、もっと霊的な生活に対して意欲的になり、その完成につとめ、心をそのことに集中しなければならないと考えているようですが、実際はもっとも鼻持ちならない人間になり、喜びはそれらの人々からは消え失せてしまっているのです。私はたとえどんなに深いことであろうとも、またどんなに重要で素晴らしいことであろうとも、聖霊の啓示によってあなたがたをみじめにさせることは何も起こらないと確信しているものです。
聖霊によるイエス・キリストの啓示(そしてそれ以外の啓示はありませんが)は決して魂をみじめにするものではありません。もし一人のクリスチャンが霊的な事柄に関してみじめでいるなら何かまちがいがあるのです。それは勝利は神のものであり、神はキリストにあって完全に究極的に勝利されたという一つの偉大で完全な真実を理解することができず、戦いにおいてその勝利の分け前に預かっているように召されていないのか、それとも続けて起こされる真理をまちがって理解し、負うべき大変な重荷があるものとなってしまっているのかのどちらかです。主イエスは言われました。「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽い」
( The Battle Which is Not Yours の抜粋引用の私・試訳です。文章全体は2歴代誌20:1~27が読まれ、コロサイ2:15「神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました」などが引用されています。
http://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003036.html
追記:6年前の誕生日の質素な様子のようである。それにしてもこの文章も英文を読み直して訳し直したいが中々そこまでの余裕がないのが残念である。少しずつこのペースで改訳をする日をつくりたい。)