2017年2月7日火曜日

内省は敗北につながる

サイネリア 喜びという 花言葉
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽い(新約聖書 マタイ11:30)

 親愛なる皆さん。もし何らかの真理を知ったためにあなたが自分自身に目を向け、内省的になり、霊的な点で自分のことばかり考えるようになったとすれば、その真理たるやまちがって理解されたと言えるでしょう。あなたはそのことのゆえにもっとも霊的な立場にいると言うかもしれませんが、あなたの理解が全く間違っているのです。

 キリストが十字架でなした偉大な働きは決してどんな人をもみじめにさせるために目論まれたものではありません。もちろんそれは言わないですむことです。しかし主を信じた後も、自分たちの生活のうちにある罪の問題を通してみじめになっている人がたくさんいます。私はその数が増えることを恐れる者です。いつも、もっと完全な啓示やもっと深い真理(それをたとえ完全な成長に進む領域と呼ぼうとも)とこのような内省的な事柄との間に大変明確な一線を引いていただきたいものです。

 ある人々はもっと霊的になるためには、もっと霊的な生活に対して意欲的になり、その完成につとめ、心をそのことに集中しなければならないと考えているようですが、実際はもっとも鼻持ちならない人間になり、喜びはそれらの人々からは消え失せてしまっているのです。私はたとえどんなに深いことであろうとも、またどんなに重要で素晴らしいことであろうとも、聖霊の啓示によってあなたがたをみじめにさせることは何も起こらないと確信しているものです。

 聖霊によるイエス・キリストの啓示(そしてそれ以外の啓示はありませんが)は決して魂をみじめにするものではありません。もし一人のクリスチャンが霊的な事柄に関してみじめでいるなら何かまちがいがあるのです。それは勝利は神のものであり、神はキリストにあって完全に究極的に勝利されたという一つの偉大で完全な真実を理解することができず、戦いにおいてその勝利の分け前に預かっているように召されていないのか、それとも続けて起こされる真理をまちがって理解し、負うべき大変な重荷があるものとなってしまっているのかのどちらかです。主イエスは言われました。「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽い」

 The Battle Which is Not Yours の抜粋引用の私・試訳です。文章全体は2歴代誌20:1~27が読まれ、コロサイ2:15「神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました」などが引用されています。
http://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003036.html 

追記:6年前の誕生日の質素な様子のようである。それにしてもこの文章も英文を読み直して訳し直したいが中々そこまでの余裕がないのが残念である。少しずつこのペースで改訳をする日をつくりたい。)

2017年2月6日月曜日

御声を聞く耳をください!

4歳と 書かせてと兄 妹を 愛する数字 4人の長だ
彼らは(エルサレムに住む人々とその指導者たち)・・・安息日ごとに読まれる預言者のことばを理解せず(新約聖書 使徒13:27)

 読者に思い出していただきたいことがあります。それは、この冒頭の聖句のメッセージが聖書を支配している一つの原則から成り立っているということです。それはどういうことかと申しますと、聖書のことばは読むことにとどまらず、主の御声を確かに聞くことの方がより深いということです。みことばを聞いても御声を聞きそこなうことが過去にもあったし、今もあるということです。

 みことばは主の意思表示です。しかし御声はそれ以上に主の真意をじかに伝えるものです。このことはイザヤ書6:9のような主の意思表示の場合にすでに明らかにされていることです。『聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな。』これが使徒13:27で言及されている背景にある(私たちの心の)状態です。

 時々クリスチャンでさえ、また指導的な立場にあるクリスチャンが御霊に対して耳を閉ざしているため、行なったり言ったりすることがふらふらしていて驚くべきことがあります。それはそれらの人々が「そのことは真実でない」と御霊が内からささやいていてくださるようには歩まないで、完全なウソであったり、他の人や主の関わってくださることに対して、言うに言われない危害を加えるもっとも致命的な報告を取り上げ、伝えることになっているからです。そのことはクリスチャンの教理信条として、聖霊に信頼するということのうちにふくまれているかもしれませんが、真理の御霊が本当かウソかを心の中に明らかにしてくださるのはいつかを知ることとは全く別のことであります。

 ただ、「(救われるために)残された者」と「勝利者※」の両者ともにこの「御声を聞く」ことによって証印を押されていることは意義深いことです。イエス様は人の生死の究極的な核心をこの「人の子の声(単なることばでなく)を聞く」ことに置かれました。「安息日」ごとに人々はみことばを聞いたのですが、御声としては聞かなかったのですから。

エゼキエルは今も私たちに向かって御霊のために耳を必要としているということを言わなければなりません。サムエルの耳を与えてくださいと祈りましょう。

「ああ、私にサムエルの耳をください。
主なる神様、開かれた耳を
あなた様のことばのささやきをことごとく
聞き取れる生きた、またすばやく聞き取れる耳を!」

(今日の箇所はThe Voices of the Prophets - Chapter 10 の抜粋の私訳である。訳の怪しいところが一部ある。読者は下記引用箇所で直接確かめられたし。初版は1965~67年の雑誌に載せられたもの。※は黙示録の「勝利を得る者」と「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい」とが続けて引用されていることにつながっている。
http://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003035.html 


追記:6年後の今日遅くなってしまい、この文章を6年ぶりにアップするだけだが英文を今一度じっくり読みたいと思わされた。それにしてもまさかこの日も二人の孫たちの誕生日の余韻が続いているとは。そしてそれをブログに掲載しているとは・・・。明日は我が誕生日である。)

2017年2月5日日曜日

あなたは主のうちを歩んでいるか

幼子の 描線なり 寿ぐ日 弟生まれ 妹は4年前 (長女夫妻に第四子誕生)
神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださる(新約聖書 ローマ8:28)

 (マルコの福音書によれば、イエス様が主のしもべとしていつも明確な行動をなさっていることが特徴としてあげられます。マルコに特徴的なことばは「すぐに」というものです。福音書にはおよそ(このことばが)40回登場し、しもべはどうあるべきかを示唆しています。もし私たちも主とそのご奉仕の通りに行動するならば、時間は無駄にならないでしょう。全精神は主にささげられねばなりません。そうすることにより人生は主に対する従順の目的が刻印されるのです。主との結びつきの中で、私たちの態度も必ず「すぐに」行動するはずです。)

 だから主イエス様はご自身の人生がこのように主に結び付けられている目的意識のゆえに強さを引き出しておられたのです。疑いもなく、私たちもその目的意識、つまり神の召しはわがものなりという意識から強さを授かるのです。それが、(悪魔という神の)敵が絶えず、そうではないと言って私たちをくじけさせる理由です。敵は私たちが目標に達しようとすると、疑問を起こすためにあら捜しをし、そして私たちにあなたがたの働きはむなしいと言うのです。もし敵が私たちの人生からその目的意識を奪い続け、証や働き、はたまた私たちがこうむっている苦しみの価値を疑わせるなら、私たちは強さをなくし、敵は勝ち誇ることでしょう。

 イエス・キリストはどんな場合にも神の強さを維持しておられました。それはご自身が父なる神様から遣わされたことから一歩も離れられず、父の目的を堅く保っておられたからです。もし私たちも人生の目的をしっかりとらえ、天からの召しをいつも仰ぎ見ているなら、強さを維持できます。しかし、そうではなく、もし私たちが自分自身の野心を実現しようとしたり、自らの計画通りに事を運ぼうとしたり、そのような動きをし続けるなら、私たちは神様からの力は何もいただけません。

 強さが維持されるために基本的なことは私たちがあくまでも神様の目的のうちにいるということを知っているということです。私たちの奉仕はつねに神の目的の結果であらねばなりません。私たちが神のご計画のうちにいると認識していることが最も大切なことです。私たちは自分自身を否定しなければなりません。神様のご目的の内には個人的な様々な関心の入る余地はありません。「神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださる」それが神の目的のために召されている信者たちに示されている(神からする)明確な発言です。私たちは主イエス様が知っておられるのと同じように、神の目的のうちに自らがあるということを明確に知らねばなりません。

Christ Our All - Chapter 10  からの抜粋の私訳である。このメッセージの序によると1935年の12月にスイスのGümligenで語られたものである。引用本文は以下のサイトである。
http://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003034.html 

追記:6年後の今日、同じ日に生まれた姉弟の誕生会が昨日持たれた。二人は10歳と6歳になったわけだ。さらに何年か後に彼らがこのブログを読んで人生を真剣に生きるヒントを得て欲しいと切に思う。 )

2017年2月4日土曜日

今、教会を通して

開花まで じっと耐えいる 椿かな われら家族の お手本なりき
一致した意見ですが、敬虔の奥義は偉大です。(新約聖書 1テモテ3:16)

 私たちは極めてしばしば自分が痛めつけられたり、試みられたり、逆境にあり、サタンに圧迫されているような時には不愉快以外の何事も感ぜられなくなります。それは、すべてのことがらに意味を見い出せないでいるのに反して、神は天使たちに指図を与え、神の支配と権威はすべてのことがらから益を引き出すのだと言われていてもです。

 私たちはそのような事柄に直面するととても愉快にはなれません。しかし私が考えるのに、そのような時、つまり地上で自分たちはとても大きな使命を実現しているように見えない時も、私たちは神様の道具として、今、(神の)支配と権威をあらわすために大きな使命の中を歩んでいると理解すれば、主が与えようとされる益がわかります。

 集会を持つために走り回ったり、主のために奉仕することだけが唯一、教会のメンバーが実現する使命だと考えてはなりません。使命はこのように暗礁に乗り上げているような時、またあらゆる地上での働きを主がストップされ、行動を起こせない痛ましい時にあっても変わらず実現されるのです。そのように活動がストップされているから使命がなくなっているとか、このようなすべての事柄は今は切り捨てられているとか結論してはならないのです。

 このようなみことばがあります。「これは、、天にある支配と権威とに対して、教会を通して、神の豊かな知恵が示されるためであって」(エペソ3:10)。(注意して欲しいのです)将来のことでなく、「今」であります。教会は、主が私たちに取られる大変な厳しさや試練の経験を通して、主なる神様から、イエス・キリストが教会の中でなされることを日々学ぶのであります。

(今日の箇所は The Battle for Life - Chapter 4  からの抜粋です。第4章は1テモテ3・16がそのテキストとして扱われていますが、それぞれ「キリストは肉において現われ」「霊において義と宣言され」「御使いに見られ」「諸国民の間に宣べ伝えられ」「世界中で信じられ」「栄光のうちに上げられ」と6つの点に分けて敬虔の奥義が考察されていますが、この箇所はその三番目「御使いに見られ」からのものです。http://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003033.html 

追記:6年前の投稿はいずれの日を見ても、生き生きしているように思う。今、その情熱がない。しかし、6年のちにしか味わえない主の道を通らされているのも事実だ。若き日にもっともっと聖書の示す真実を吸収したかったが・・・)

2017年2月3日金曜日

十字架に示される「逃れ」の町

初春の 思いを運び ゆかしきか 大阪からの 絵葉書なりき(今日は旧正月)
もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。(新約聖書 ガラテヤ6:1)

 もし私たちが本当に十字架でなされたこと、すなわちご主自身の満たしが与えられ、敵が征服された偉大さを霊的に何らかでも理解するようになったら、私たちは狭量な人間にはなり得ず、キリストにある立場の偉大さゆえに寛容になるに違いない。

 それは端的にはこんな風な働きである。主が十字架でなしてくださったことの理解が大きくなればなるほど、他の人々に対して益々寛容になるにちがいない。また、益々忍耐強くなり、悪に対してすぐ悪で返すようにはならず、忍耐が容易になり、悪に耐えるようになるということだ。

 もし、私たちが悪いと感じる事柄に対してお互いにすぐかっとなるならば、それは極めて限定されたカルバリ理解にちがいない。(そうではなく、人の罪を)きわめて大きく見過ごすように、また大変寛大になるにちがいない。私たちは、喜ぶべき霊的地位、すなわち天に引き上げられる地位に置かれるから、恵みが勝利の凱歌をあげねばならない。こういう「逃れの町」は最高であるに違いない。恵みが天にあっては支配するからである。

 キリストにあって天に達する時でさえ、過ちに対してなされる備えがある。罪がない完全さのようには見えない。天に移される時でさえ、すべての欠陥や過ち、大失態や損害がなかったかのようには見えない。悪くなったことに耐えるには依然として恵みが必要であるかのように見える。それで、私たちが霊的にその位置に達する時でさえ何らかの悪があるにちがいない。主は、それゆえ恵みがあるとおっしゃる。

http://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003032.html  Filled Unto All the Fulness of God - Chapter 13 の訳である。 今日は久しぶりに家庭集会が開かれ様々な地方から多くの方々が集ってくださった。メッセージは「パウロに学ぶ喜びの秘訣」と題して、5つの喜びが語られた。引用聖句はピリピ4:12~13であった。今日の箇所はさしずめその中で語られた第一番目「主から救いの恵みを受けたことの感謝の喜び」に該当する、と言えようか。ちなみに他の4つは順番に掲げると②罪と律法から解放される喜び③神の栄光を現わす喜び④主の苦しみにあずかることを通して神の愛を確信した喜び⑤天の御国をめざす喜び、再び来られる主を待望む喜び、であった。同時に70歳になられ、この3、4年余りのご経験を通して大きく主イエス様への救いへと導かれた方のお証もお聞きすることができた。

追記:6年前のこの投稿を見て、この日に家庭集会が持たれたことを知った。残念ながら最後に触れている方がどなたか思い出せない。様々な資料を探してもわからなかった。自らの好い加減さにあきれる。そこへ行くとこのすばらしい絵はがきをくださったことは覚えている。しかし残念ながらこの方とはこれっきりになってしまい、今日に到っている。)

2017年2月2日木曜日

神の愛される台所

一瞬、リスが! エジンバラのwest princess street gardenの一角
より頼んでいるあなたがたには尊いものです(新約聖書 1ペテロ2:7)

 もしあなたと私がもっと光を、もっと啓示を獲得するなら、人々は私たちのうちに、啓示や光をいただいていない人々とくらべてキリストをより一層見ることになるのでしょうか。神様は私たちがそのような力を得ることをお許しになりません。なぜなら、父なる神様は御子を除いては決して動かれないからです。父なる神様は理論や教えや教理や私たちが啓示と呼んでいるようなものには決して動かれません。ただご自身の生ける御子が明らかになる範囲内にとどまっておられるのです。

 私たちは主イエス様により頼みましょう。他のいかなるものよりもあなた様をあらわしたいという強い願いが私たちのうちに起こされますように。偉大な真理を宣べ伝えることでもなく、また説教者や教師やそれに類似した何者かになるのでもなく、主イエス様をあらわしたいのです、と願いましょう。

 神の家の上層部に余りにも多くの時間住み過ぎないようにしましょう。神の家は一つです。地下もあれば台所もあります。私たちはいつでも最上部すなわち大変天的であり霊的であり抽象的でありかつ真理の高く引き上げられたところでは、台所の実際的なことがほったらかしにされるようには住みたくないものです。もし家に入って、二階に連れて行かれ大変きらびやかに素晴らしい装飾のあつらえられたところを見せられ、それから台所に降りて二階で見たことと全く不釣合いな汚れたところをとにかくきれいにするとしたら、一体あなたは何と言うでしょうね。ここには良くないものがある、ふさわしくないと言いますか。

 霊的な生活にも台所の側面があります。実際的で日々の退屈な事柄のすべてにおいて主の麗しさはちょうどキリストにあって天高くいるのと同じ程度にあるのです。上だけで生活することのないようにしましょう。下で生きねばなりません。そのことは神のことばが語っている通りです。それがパウロがエペソ人への手紙で語ったことです。

 彼は手紙の半分で天について書き、それから章を分かつことなく、まっすぐ手紙を書き進めました。「私は・・・召されたあなたがたが、その召しにふさわしく歩むことを勧めます」(エペソ4:1)そしてそれから夫たち、妻たち、子どもたち、両親たち、主人たち、女主人たち、召使たちについて(書きました)それは台所に降りて来て天からの栄光をもたらすものです。大変重要な側面です。大切なことはこの地上でも見出されねばなりません。「天と同じように地にも」(マタイ6:10)

(今日のところも大変訳しづらかったところです。誤訳があると思いますし、どうしても訳せなかったところは飛ばしました。是非原文にお当たりください。ただこの章は4章目に当たるところの抜粋ですが、1、2章前にはスコットランドの山を見ての話がありますのでメッセージがなされたのがスコットランドのような気がしました。またキャンベル・モルガン博士のヨブ記についての話の言及がありますし興味はつきませんでした。訳には反映していませんが、Features Of Zion - Chapter 4 も中々すぐれた読み応えのあるメッセージです。引用はいつもどおり
http://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003031.html 

追記:6年前のこの訳文、また文章を見ると実に多くの「宝」を味わうことなく、今日に至ったのかがよくわかります。ここでスパークスが言わんとしていることは大変重要であると思います。まして1、2章も私自身が目を通しているとは自分でも信じられない思いでいます。)

2017年2月1日水曜日

世を愛されたイエス様

鴨二羽の 堤に上がり 啄ばむは 地中の餌 水乏しきか

というのは神は世を愛されたから・・・(新約聖書 ヨハネ3:16)

 この小さなことば「というのは」には大層な重みがかけられています。――「というのは神は大変世を愛された」とあるとおりです。さて、ヨハネの福音書3:16は福音の心であると言っていいでしょう。けれどもこの聖句ははるかにそれ以上であります。なぜならこの聖句は世界の(に対する神の)心そのものであるからです。この創造された世界の万物の背後には(神の)心があるからです。単なる人の心、意志、計画、理性、力、命令ではなく、(主の)御心そのものがあるからです。

 創造のうちには計画があり、世界の背後には心があり、意志が存在に働いていることを証明しようとすることに私たちは慣れ親しんでいるでしょうか。そうすることはすべて大変良いことであり正しいことです。しかし私たちは、いつもすべての背後に心があり、他のいかなる物よりも心があると悟るようにとは求められていません。(しかし)理性、意志、計画は心から来るものです。万物は神の御心に起因します。

 神の考えや神の助言についてこれまで言ってきました。物事の核心に近づけば近づくほど、核心部にある正しさは心であるという事実に惹きつけられるようになるでしょう。私たちが最終的に問題にするのは心です。決して理性を満足させる説明でもなく、力の誇示でもなく、心です。それも力のある心です。そしてそのことば(力ある心)を正しく用いるとすればそれは「愛」ということになるでしょう。

 心のない人について話題にしましょう。これらの人は愛が意味するものをすべて備えていないということです。愛がこれらの人々の考えや行動や動機を支配していません。これらの人々は愛の異邦人であります。それですから、私たちにとって心は愛を意味します。私たちが万物の背後や中心に心があると言う時には同時に愛があると言おうとしているのです。

(今日の該当箇所は以上である。例のとおり以下のサイトの訳である。
http://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003030.html
 しかし、読者諸子はこの文章のまわりくどい言い方に異議を感ぜられるかもしれない。しかしこの文章は His Great Love - Chapter 1  の冒頭部に過ぎない。実はこの文章の後半部に以下の叙述がある。

 闘い<ゲッセマネの祈りの闘い>は過ぎ去りました。状態は確固としたものになりました。彼らは夜中に松明に灯をともしながら、足音も高く駆け足で、鞘から抜き出された剣を手にして主イエス様を連行しにやって来ました。イエス様を裏切った裏切り者は「私は彼が行く所を知っている。私は彼とともにいたから私はわかるのだ。あなたがたを彼のところに連れて行ける。あなたがたが彼を弟子たちの一人と見誤らないように、私は彼に口づけをする。それが合図だ。」とあらかじめ話しました。

 かくして、彼らは祭司長たちと指導者たちの一団となって、背後に憎しみを携えながらやって来ました。しかし主イエス様は巌のように微動だにされません。逆に主イエス様の前で彼らはたじろいだのです。「あなたがたは誰を探していますか」「ナザレのイエスだ」「わたしがそれです」すると「彼らは後ずさりし、地に倒れました」再度主は言われます。「あなたがたは誰を探していますか」「ナザレのイエスだ」「わたしがそれだと話したではありませんか。もしわたしを探しているならここにわたしがいます。わたしを連れて行きなさい。他の者は自由に立ち去らせてやりなさい。」主イエス様は指導者や祭司長の前でまたピラトの前でどんなに巌のように平静でまた沈着で最後まで正しかったことでしょうか。多くの争いと憎しみと興奮と心配を終わらせ、あなたがたを落ち着かせる、勝利せる愛がそこにはあるのです。それが主イエス様でした。

 次に主の主ご自身との関係を見てご覧なさい。それは次の一語に要約できます。「世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残すところなく示された」(ヨハネ13:1)イエス様は恐らく(裏切り者の)ユダを愛しておられたことでしょう。ユダがその一団をイエス様のところに連れてきた時にイエス様は彼を見て「裏切り者!悪党め!醜い男よ!」と言われなかったことにあなたは注目すべきです。

 そうでなく「友よ!」とおっしゃったのです。私はそれがユダを自殺に向かわしめるのに値したと思います。「イエス様は私を友と呼ばれた。しかし主は私が何をするのか知っておられたのだ!」主イエス様は最後までご自身のものを愛されました。そうです。私たちは自らを知って、この愛の不可思議さに同意されないでしょうか。

追記 以上は2011.2.1に訳して本ブログに掲載したものであるが、今日から日付を追って再録し、6年前に訳し損ねた日の分は新たに訳し追加掲載することにする。写真を見て6年前にもやはりこのように鴨を身近に見ていた。しかし今よりはもっと自らが生き生きしていたのだと思わされた。)