2011年12月28日水曜日

あなたを愛し慕います

新しいカップルの誕生
私にとって生きることはキリストです。(新約聖書 ピリピ1:21)

 それがすべてをキリストに明け渡した者の良い知らせなのであります。キリストによって本当に虜にされると、すべてのことが起こり、どんなこと も起こり得るのです。それがパウロとピリピの人々にとって意味を持った事柄でした。キリストはまさしく彼らを魅了したのです。彼らは人生においてキリスト 以外のどんなことも考えませんでした。彼らには仕事があり、商売があり、職務があり、世の中の生活や関心において別の歩みがあったかも知れませんが、彼ら は一つの支配的な考え方、関心、興味であるキリストを持っていました。彼らにとって、キリストがあらゆることにあって休息所であったのです。そのための適 当ないかなることばもないのです。キリストがまさしく彼らを虜にしたのです。

 そして、親愛なる皆さん、それが、どんなに単純に響こうともすべ てのことを説明するものだと私は思います。それがパウロを説明し、このピリピの教会を説明し、信者やクリスチャン相互の愛を説明しています。それがあらゆ る彼らの問題を解決し、すべての困難を解き放ったのです。ああ、これこそ私たちが必要としていることです! もし皆さんも私もこのようでさえあるなら、も し私たちが 本当にキリストによって捕えられているならばです。私はそのことを皆さんにうまく伝えることはできないのですが、私がその真理を見たときに、つまりそれを 見て、 読み、そのことについて考えたとき、私は自分のうちに何かが働くのを感じ、そして説明できない何かを感じたのです。

 結局、私たちの全ての悩みの十中八九は、私たちに影響を与え、私たちを支配し、動かす個別の関心が他に、つまりキリスト以外の別の観点を持っ ているという事実から説明できるのです。もしキリストが私たちをとりこにし、魅了し、支配し、そう、こんなことばを用いてもいいなら、とりつかれる、栄光 あるとりつかれとなるならば、です。賛美歌作者が次のように書いた時、このことを言おうとしたのだと思うのです。「イエス様、私の愛する人」そしてさらに 彼は歌います。「私はあなたのうちにすべてにまさるものを見いだします」と。そうであれば、私たちは喜びで満たされるのです。「諦めねばならない」という 悔いは一切ありません。喜びに満ち、勝利に満たされるのです。敗北の精神は一切ありません。大きな勝利の喜びです。生活の上におよぶキリストの勝利です。 そうです。それはかつてあっ たのです。あったのですから、再び今もあり得ることがらなのです。

 しかし、このことは頭で理解する以上のものを必要とするのです。私たちはそれほど容易にその要点を見失いやすいのです。私たちはことばや考え を賞賛するかも知れません。すなわち美しいものとしてそれを本来の価値から落としてしまうかも知れないのです。しかし私たちが必要としているのは自己をな くすことに専念すること、つまり私たちや私たち自身の栄誉に関するすべてのこと、評判を捨てることであり、魅了されるお方は見えるかぎり唯一の方にあり、 評判も唯一の方であり、私たちはそのお方の足元に下るということです。これが福音なのです。良き知らせです。キリストが本当に、心の中心になる時、このピ リピ人への手紙にある事柄が起こるのです。それは本当なのです。主なる神様に、自らの人生が主の愛する御子のとりことなりますようにと、求めようではあり ませんか。

(今日の箇所は The Gospel According to Paul - Chapter 5 の 抜粋引用訳です。と言っても久しぶりに取り組みましたので、相当勝手な文章になっています。正しくはいつも通り原文に是非目を通してください。原文は http://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003511.htmlです。)

2011年12月15日木曜日

霊的感覚の訓練

懐石料理11の紹介(by Keiko.A)
9.食事 Essen
10.止椀 Schüssel Suppe für Ende 
しかし、堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。(新約聖書 ヘブル5:14)

 生まれながらの人間には五感が与えられています。すなわち視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚です。こういうものが肉体に与えられた五感です。しかし、「心の中の隠された人柄」と言われる内なる人にもあります。そしてその内なる人には外なる人の五感に匹敵するものがあるのです。霊的な視力、聴覚、嗅覚、味覚、触覚が、それです。こういう感覚は内なる人の生活にとって大変重要です。そうです、肉体の感覚よりもはるかに重要です。

 私たちは外なる感覚のうちどれか一つでもなくしてしまった人の悲惨さがどのようなものかを知っています。それは大きな損失であり、不完全ないのちであり、制限のあるいのちです。そのことは内なる人にとっても真実であります。霊的な視力なしにいることは悲しむべき損失であり制約であります。御霊に答える能力である霊的聴力を欠くことも同じであります。「耳のある者は御霊が言われることを聞きなさい」とあるとおりです。もし聞く力がないならそれは深刻な事態であります。

 もし感知しないならどんなに損害があることでしょう。その感知はすぐに感得する嗅覚のように知りうるものです。それが異端や欠けあるものや間違っていることをかぎつけようとしてはどんなに間違って用いられたかを知ります。非常に重要な霊的嗅覚の正しい能力があります。それが主に関して言及がなされたことだと私は確信しています。「主の嗅覚は主を恐れるうちにあります」His scent shall be in the fear of the Lord(イザヤ11:3※)主が望んでおられることを嗅ぎ取ることをまちがわず、かつすばやく知ることであります。そして、それはどんなに主の天的な生活にとって真実であったことでしょうか。それは主が敵を感知し、その目論見を知るのに役立ったもの、また父なる神が望んでおられること、そして主が望んでおられる時でないと知ることでした。敏速な感知が重要なのです。そして私たちの味覚や触覚も同様に触れ合うことにより覚知するものです。

 これがまさしく本当の内なる人です。こういうものは霊的な資質の地盤から生ずる感覚であります。こういうものは訓練されるものであり、増進と発展のために「完遂される」 べきものです。
(ヘブル12章で使徒が神の世継ぎである子どもであることについて語り、それから9節で「霊の父」という語句を用いているのをご存知でしょ う。「私たちには肉の父がいて、私たちの肉の感覚が発展されること自然の領域での正邪を知る点にまで鍛え上げられることを知っていた。それゆえ肉の父は何が正しいか間違っているかを私たちは教えた」ところが私たちには霊の父がいるのです。私たちの霊的資質や感覚が父の関心事であります。霊の父は霊的な視力、聴力、嗅覚、味覚、触覚の各能力が発展することを主眼にしておられます。これが完全に成長した人とはどんな人であるかを説明することであります。)

(今日の箇所は Spiritual Exercise の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003498.htmlです。※イザヤ書原文の日本語訳は「この方は主を恐れることを喜び」であります。)

2011年12月7日水曜日

まことの聖所への道

風激しく裸木となった樹木 12/4 於 牛久市生涯学習センター
これによって聖霊は次のことを示しておられます。すなわち、前の幕屋が存続しているかぎり、まことの聖所への道は、まだ明らかにされていないということです。キリストは、本物の模型にすぎない、手で造った聖所にはいられたのではなく、天そのものにはいられたのです。(新約聖書 ※ヘブル9:8、24)

( さて、ヘブル人への手紙があらかじめ何らかのことを見越して書かれていたことを覚えていらっしゃいますか。使徒はそのようなユダヤ教の全体系が間もなく灰塵に帰することを知っていました。主イエス様はそのことを預言して石は積まれたままで残されることはないと言われました。ユダヤ教は4つの嵐に見舞われるのです。すなわち宮も、天幕も、いけにえも、祭式も、祭司者もなくなるのです。すべてのことが終り、神の預言が実現し粉々に砕かれるのです。彼らの神との交わりがそのようなものと結びつけられているなら、これらの人々はどうなることでしょうか。それはなくなるのです。体系ごとなくなり、神は人々がそのようなものから救い出されることを望んでおられました。地上にしばられていたものがなくなり、救いに属する新しいものへと移行されるのです。)

 神との交わりは私たちが集いに行けるかどうかにかかわらず私たちが主につながっているというその種のものであらねばなりません。私たちがすばらしい心を満たす音楽を持とうが持つまいが主としっかりつながることです。私たちはそのような地上的な領域には属していません。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。」(訳注:ヨハネ4:21)

 レンガとモルタルは霊を満たすことはできません。人のたましいは神とつながりのある霊という媒体を通してしか神と交わることはできません。それがカルバリの十字架がなしたことなのです。もちろん、みなさんは十字架のメッセージがなぜ受け入れられないかを理解しておられるでしょう。もしみなさんが十字架を受け入れ支持するなら、歴史的で伝統的な遺産に強力な分裂をもたらすという理由のために宿営の外に追い出されることでしょう。恐ろしいことです。サタンは神が伝統的なものを廃棄されたとき、神の代理権あるいはその遺産を適用する典型的な仕組みを制したのです。神が時期にかなった計画を実行されたことをサタンは神との真の交わりの性質をあいまいにしてとりこにしようと夢中になったのです。

 さて、どなたも 私がそのような仕組みの中には霊的な人々はいないと言っているとは思われないでしょう。私はそんなことを言っているのではありません。しかし、私の言いたいことは次のことです。もしその伝統がその人たちにとって霊的ないのちに置き換わるものであったり、その伝統を持たねばならないとし、かつその伝統に生かされていて、それを越えて物事は見ないし、またそこからは自由になれない領域であるとするなら、その人々はカルバリの十字架の意味をはき違えたのだし、十字架につけられたキリストの意味、すなわち神の叡智と力を全く取り違えているのです。この世の主権と権力と戦うことは外面的な事柄以上のものを要求するのです。

 ご存知の通り私たちは恐ろしい働きに直面しています。すばらしい霊的な立場に直面にしており、霊的な立場が唯一それこそふさわしいのです。私はみなさんが十分な光を、いただいて、これまで言われて来たことが正しいと知られると確信しています。私たちは主が私たちに最初に最上として与えられた立場以下のいかなる立場も取りたくありません。私たちは神のめぐみによって私たちのために神が第一の地位にあるように最大の犠牲を払う用意があることを確信します。私たちが主とともに歩み続け「うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進」(訳注:ピリ ピ3:13)めますように。そしてもう一度「みもとに行こうではありませんか」(訳注:ヘブル13:13?)とヘブル人への手紙のところに来ることができますように。

 おもちゃや絵本や挿絵や像や型はほとんど知性のない子どもたちのためにあります。それ らは神の意図が子どもを持つことでなく、息子を持つことが明らかになる時には取り上げられます。二つのもの(訳注:こどもと息子)の間には大きな違いがあるのです。だからカルバリの十字架は神とのつながりが外形的な事がらに過ぎない幼稚園からは離れ、私たちが神の息子として精一杯成長する天的な秩序の満たしをもたらすのです。願わくは私たちがそうでありますように。

(今日の箇所は Christ the Power of God - Chapter 4 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003487.htmlです。久しぶりの訳業です。この半月ほどオズワルド・スミスの本を松代幸太郎さんの訳で数冊読み、魅了されてきました。英文を読むより、日本語訳を読む方がさまざまなことがわかり、一年弱オースティン・スパークス氏の文章につきあってきて、英語読解力がなく、多くの時間をささげたため、失ったものがあることを知りました。けれどもこうしてまた曲がりなりにも最後の月に翻訳に戻れたことを感謝します。ただこれまでの訳と違い、逐語訳にはなっていず、また正確な訳ではありません。英文に触発されてこのような意味でないかと思う私のことばが先行しているところがあります。英語読解力のある方は是非英文そのものをお読みくださいますようにお願いします。なお、今日の引用聖句はサイトではヘブル8:3、13と書いてありますが、文章そのものはヘブル9:8、24ですので、そのように訂正しました。)

2011年11月26日土曜日

神の王国の基盤の真実さ

北海道・摩周湖の白鳥 by Yuriko.O
自分から語る者は、自分の栄光を求めます。しかし自分を遣わした方の栄光を求める者は真実であり、その人には不正がありません。(新約聖書 ヨハネ7:18)

 あなたも私もいつかは神と顔を合わせることになります。私たちは文字どおり永遠に神と顔と顔とを合わせるようになります。その時、質問が出てくることでしょう。神はいかなる点においても私たちが失格だとされたのではなかったのでしょうか、と。私たちはどんな細かい点においても、主よ、あなたは私の期待にこたえてくださいませんでしたね、あなたはご自分のことばに忠実でいらっしゃいませんでしたねと、果たして言うことができるでしょうか。過去において、いかなる存在であっても、神に対して神の真実さや、誠実さに関して何らかの疑問を持つ、そのような批判を持ち出せるような立場にあるとは到底考えられないことです。

 聖霊は私たちをあらゆる真理に導くために真理の御霊として送られてきました。それゆえに、神と私たちの間にはたとえどんなことがあっても、神の完全な誠実さ、ご自身とあらゆることばに対する真実さに関するいかなる(疑いの)影も存在しないことでしょう。聖霊はそのためにやって来られたのです。もしそれが本当なら、聖霊は、キリストの学校のあらゆる弟子たちに、真実でなく純粋でないものをすべて削ぎ落とし、神の絶対的に完全な正当性があらわにされる日に、神の前に住み得る基盤の上に、すべてのそのような弟子たちが立てるように事を運んでくださることでしょう。

真の基盤のために必要なこと

 しかし、このことがそうなるためには、あなたも私も聖霊の教えのもとに非常に誠実に取り扱われねばならないのです。また、私たちは神の前に完全に整えられるところに到達していなければなりません。そして、そのところにおいては聖霊にすべて聞き従い、聖霊に逆らったり拒絶したりするものが私たちのうちに全然ないということです。逆に私たちは、聖霊に、取り扱われ、整えられる必要のある生活上のいかなることがらにも触れていただいて、最も大きな影響を受けてもいいように、完全に心を開き、受け入れる用意をしているのです。聖霊はそのために地上に来ておられるのです。

 私たちのうちになされることが認められている聖霊のそのような働きに代置するものがあるとすれば、私たちは私たち自身が間違ったところに位置していることに気づくでしょう。しかしその代置するものが余りにも代償が大きすぎるので、間違った位置に自分がいるとは気づくことができないほどなのです。たとえそれだけが確かな事項だとしてもです。(The alternative to such a work of the Holy Spirit being allowed to be done in us is that we shall find ourselves in a false position, and it is far, far too costly to find ourselves in a false position, even though it only be on certain points. )これが私たちが住んでいる偽りの世界、たくさんのうそに塗り固められる世界なのであります。この世界の全構成は嘘です。そして大多数の人がそのことを知らないですし、自分たちは正しいと思っている人のまさしくその性質のうちにあることなのであります。彼らはニセの基盤の上に世界を築こうと務めているのです。 神の王国は全然別なのです。それはイエス・キリスト、真理なるお方の上に築かれるのです。

(今日の箇所は The School of Christ - Chapter 2 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003472.htmlです。英文を併記したところは特に訳に自信のないところです。)

2011年11月25日金曜日

神のよみがえりの力

火曜日の朝の伊吹山、この日、富士山はあいにく雲が覆い山頂が見えなかった。
(どうか、)あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、(略)神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせ(なさいました)(新約聖書 エペソ1:18〜20)

復活は卓越せる奇跡です。死は神のみわざ、神の似姿、神の目的に反対する最大の力です。同時に死はこの宇宙において人に逆らう最大の力です。人の労働や、人の望み、人の幸せに歯向かいます。死はあるがままに造られたものの最後のことばです。神を除いて、この世界には死ほど偉大な力を持つものはありません。死が介入し、その働きをなしたとき、死を反古にしたり、破壊することのできるものは何もありません。悪魔の権限において死の力にまさる力は存在しません。これが死者からのキリストのよみがえりに言及して、みことばが「神のすぐれた力」(エペソ1:19)と書かれている理由です。死があらゆる悪の力、すなわち、罪、苦しみ、悲しみ、そして破壊に立ちまさるとき、神の類まれな、何物も寄せつけない答えだけが唯一の望みであり、ただひとつの答えなのであります。

新約聖書における復活ほど他のいかなるものにまさって重要で栄光あるものの占める位置はありません。まことに復活が実現されるまでは他のどんなものも空しく無価値だと称えられるのです。復活はありとあらゆる証とはたらきにとって価値を与えるように提示されているのです。死、霊的な死(存在が終わることではありません)、実は肉体の死はほんの小さな側面でしかあり得ないのですが、死はサタンの領域です。しかし復活は神のキリストにある権限です。

繰り返しますが、復活はあらゆる形態、観点の死に対する答えです。神の御子、イエス・キリストにある解答なのです。そのことを言い終えましたので、続いて、新約聖書に啓示されている次のことがらは、イエス・キリストにあるこの卓越した真理が神の霊的な家族に生まれ変わるすべての人が神の世継ぎで あることを保証するものであることを覚えましょう。神の子として真に生まれ変わったすべての人に与えられる相続権であります。

しかし、そのことが霊的に真実であることを経験する要点は、私たちがベタニヤのマルタが、あのような啓示による矯正を受けながら、なした過ちを犯してはならないということです。彼女は自分の兄弟に関して、こう言ったのです。「私は、(終わりの日の)よみがえりの時に、彼がよみがえることを知って おります。」(訳注:ヨハネ11:24)よみがえりは何も信者にとって将来のことではなく、主イエスを信じ、受け入れる瞬間のことなのです。よみがえりの順序というものは今や先ずは人間の霊のよみがえりであり、最後によみがえりのからだなのです。このことはその意味を悟るのに多年を要するかも知れませんが、いかなる新生したクリスチャンにとっても、今更述べる必要のないことであるのです。

(今日の箇所は Horizoned by Resurrection - Chapter 6 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003471.htmlです。文章は原文に添って読みやすいように、なるべく文意を変えずに一部表現を変えました。ご了承ください。)

2011年11月24日木曜日

天にある霊的祝福

日曜、月曜と各地で虹が見られた。これはふるさと高宮で月曜日に見た虹。
私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。(新約聖書 エペ ソ1:3〜4)

さて、このみことばは教会に宛てて書かれていることを忘れないようにしましょう。文字どおり、キリストにあって天にあるあらゆる霊的な祝福をもって祝福したと言っています。世界の基の置かれる前から選ばれたこと、そしてイエス・キリストをとおして子として世継ぎになるようにあらかじめ定めれたことが、天にあるあらゆる霊的な祝福をもって祝福されてきたのです。 それが神のご自身にとっての考え、つまり十分包括的で絶対的な考えとしての満たしであります。ところが私たちはまだあらゆるこのような祝福を受け継いではいません。それは神が祝福を与えられなかったからではなく、私たちが祝福をいただくまで成長しなかったからです。私たちはキリストにあってあらゆることに成長していないのです。それが私たちの話している要点であり、神の考え、つまりはキリストの量りに達して欲しいという勧めであります。

神の考えとは何でしょうか。キリストの完全な量り、キリストの似姿に満たされることです。それが私たちにとっての神の考えです。神の考えをしっかりつかみましょう。信仰によってこういう考えを適用し、神の考えに信頼しましょう。この考えに一致するように求めましょう。そして聖霊とこの方の力により、神の考えが私たちのうちに生きて働くように、私たちを形造り、組み立てていただきましょう。それが神の目的なのです。目的は私たちにキリストの完全な量りをもたらすためにあるのです。

私たちがなさねばならないすべてのことは、そのことを明確な事実ではあるが、大変な義 務をあらわすことを示すものとして述べることであります。私たちは大きな責任のもとにへりくだることなしにはそのようなことを話したり聞いたりすることはできないのであります。もしこれがみことばを通してキリストのうちにある天からの神の啓示であり、私たちの心には聖霊によるものであれば、その時私たちには非常に重要な責任が伴うのです。責任について話す必要があるでしょうか。私たちのための神の考えは本当に私たちの心のうちに言いようのない感謝と崇敬の思いにひたらせないはずはないのではないでしょうか。聖書中にある「みこころのままに」(訳注:エペソ1:5)つまり主のよろこびという召命と関連するこれらの別のことばを認識するべきではないでしょうか。あなたは覚えておられるでしょう。ヨシュアとカレブが地を探って報告したとき「もし、私たちが主の御心にかなえば、私たちをあの地に導き入れ」と言ったことを。それが私たちがここでとりあげていることに他ならないことなのです。キリストが神の満たしの地であります。そして私たちがその満たしに入れるのは神のみこころによるのです。

(今日の箇所は The Church of the Firstborn - Chapter 4 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003454.htmlです。)

2011年11月11日金曜日

主が第一に求めておられること

昨日、吉川市で見かけた珍しい花
知恵ある者は自分の知恵を誇るな。つわものは自分の強さを誇るな。富む者は自分の富を誇るな。誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。(旧約聖書 エレミヤ9:23〜24)

なぜ主は私たちがこうなさるはずだと思うあれやこれやをなさらないのですか。それは証拠や証明を求めるたましいの働きがあるからです。そしてこれがその理由 なのです。すなわち、もし明らかに大きく印象を与えるようなクリスチャンの働きによって築き上げられるものが何かあるなら、クリスチャン大衆はワッとそれに群がるからです。そこには大きな組織があり、足元からする大きな運動があり、すべてが目に見える領域のうちにあることなのです。そうでなければ、示威運動があり、はっきりとした証拠と見られることがあるなら、群衆はそんなところにひきつけられていくのです。

敵は示威運動やしるしの分野における聖霊のニセの働きによってたくさんの人々を魅了することができます。私たちは非常に影響を受けやすいので、取りついてしまうにちがいありません。そしてそれが指導者たちを支配したのとまさしく同じ原理なのです。彼らは十字架の原理を適用するようにとは心の準備がなされていなかったのです。すなわち完全に自己を空しくすること、つまり主ご自身以外のどんなものも終わりにしてしまうということです。

預言者たちがつねに話していた一つのこととは何でしたでしょうか。それは主を知ることについてでした。預言者の時代に主の民の間に不足していたことは主を知ることでした。主が彼らのためになさることを主に求める備えのある人はたくさんいましたが、しかし主ご自身に関しては・・・ああ、それは別のことでした。

主はあなたや私に何を求めておられますか。主は第一に私たちが行動することを求めておられますか。今日、神からのものである思想はおもに神のためになされることがら、私たちが従事する働きなどに関係しています。それは対象的、外形的なものをともなうものであります。しかし主は私たちがどれだけのことをするかについては関心を持っておられません。主がはるかに関心を持っておられるのは、私たちがなすことが少しであろうとたくさんであろうともどんな微小部分も主を知る知識から出るべきだということです。どんな程度にあっても、あなたが他の働きをなすのと同じように、キリスト者の働きや活動にあっては主のためになされるのです。 しかしそれがあなた自身の神を知る深い知識から始められないのかもしれないのです。主は何にもまして私たちが神を知るようにと関心を持っておられるので す。

(今日の箇所は Prophetic Ministry - Chapter 5 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003441.htmlです。意訳する余り、誤訳があるかも知れません。しかし、かつてのことではあれ、ブログ「泉あるところⅡ」でご一緒にお読みしているヴォーリスさんの働きを聖書から照射するのには格好の学びではないでしょうか。)

2011年11月9日水曜日

御霊によって心を裂いていただきましょう

焦点を違えました。ざくろの弾けたところを撮りたかったのです
かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。(新約聖書 ローマ2:29)

知性や感情について真理であることは意志の領域においても真理であります。多くの人々にとって、我が道を行く意志があります。人々は地位を得、それを粘り強 く固持し、死守します。彼らはしっかりと掴み、全く手放すことはできません。彼らはみことばによって自らの地位を支えるでしょうし、みことばにまさる「啓示」を用いてまで支えることでしょう。その彼らの意志があらゆる混乱の原因であります。彼らの生活に対する神の全計画を遅らせ後退させる原因はまさしくそこにあります。すなわち彼らの選択、彼らの地位、彼らのやり方、彼らの生まれながらの強い自我、こういうものは決して壊されて来なかったのです。だからそこでこそ割礼が行われねばならないのです。
 割礼は実に様々な方法に適用されるのです。

十字架は、霊的なその割礼の道具として、この自我に段々さらに深く適用されねばなりません。なぜなら自我には終着駅がないようにみえるからです。しかしそれは痛みを伴う、暗い側面です。別の面では何が起こりますか。それはキリストのためになされる機会ではないのですか。本当の子孫、キリストの子孫が成長し、ますますはっきりするようになります。私たちがこれまでずっと考察してきた性格、すなわち知性や感情や意志の強さと正反対のものは柔和です。キリストは言われました。「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。」(マタイ11:29)このことをあくまでも追求しなさい。そうすれば、あなたは主のご存在のまさしく深みのうちに完全に異なったものがあったことを必ず認識できることでしょう。

私はこれまで、私たちが、自己表現、自己憐憫、自意識、自己満足など無数の形のうちにあるこの自己原理の全領域を数え上げることは不可能だと言ってきまし た。クリスチャン生活や主にささげることにおいてさえも、私たちは、他の人々がどれだけ献身し、どれだけ謙遜であるかを知れば知るほど幸せなのです。そしてそれが自我です。可愛そうな(こんなことばを使ってもいいのでしょうか)四六時中立ち上ってくる悪臭を放ってやまない自我であります。と言いますのは、 神の本当の子どもは自分を忘れます。そしていかなる道にあっても自意識がないのです。もし他の人々が神の子について何か良いことを指摘しても、彼らはそのことを了解しなかったでしょうし、そのことに気づいていなかったのです。

彼らは誰かが自分たちについて何か良いことを言ったとしたらびっくりするでしょう。彼らはそのことを意識していないのです。そして他方で人々が批判し、失敗を指摘したら、彼らは次のように言うだけです。「そうです。私にはわかります。私が主から離れたのです。」( “Yes, I know: I had that out with the Lord,”)とか「私は今すぐそのことを主の前に出します。私はそのことについて正直でありたいです」( “I have got that before the Lord right now. I am not deceiving myself about that.” )これが天にある本当の子どもなのです。

そういうわけで、私たちは続けることができればいいのです。それが割礼の意味です。その光の中で、本当の意味、本当の原則が、一人のパリサイ人が、すなわちアブラハムの子が「私は他のだれよりもいい」と言うこととか、誰もが見たり聞いたりするように長い祈りをすることを評価するのです。アブラハムの子ども!あなたは主が彼らに言われたことを全部覚えているでしょう。ああ、彼らは何と的がはずれていたことでしょう。しかし、私たちは批判したり、非難しないようにしましょう。それはまさしく私たちを探ることです。そうではないですか。パウロは割礼は何も意味がない、無割礼も何も意味がない、(大事なのは)新しい創造だと言っています。本当の割礼は肉のものではなく、心に対するものです。主は私たちに切り裂かれた心を下さいます。そして究極的にはこの(自我からの)分離が追求されるようにと恵みを下さるのです。

(今日の箇所は The Israel of God - Chapter 5 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003439.htmlです。英文を示しましたところは訳に自信のないところです。久しぶりにオースティン・スパークス氏の文章に接しました。この視点で私たちは別のブログ「泉あるところⅡ」で紹介しているヴォーリスさんを見ることも必要なのではないでしょうか。)

2011年11月5日土曜日

聖霊に従いましょう

ピラカンサス by yuriko.O
神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない。(新約聖書 使徒10:15)

もし神の子どもがキリストを交わりの土台としさえするなら、霊的な満たしを妨げ、現在の弱さがどれだけ多かろうとも、限界と敗北は除去され、大きな妨害者はその地から追われることでしょう。それからこの満たしの原理が機能し、いくつかの重要な調整が必要であるもう一つの方向があります。それは

聖霊がご支配される余地

を残すということであります。この大変重要な事柄の上に「使徒の働き」という聖書中の本は基礎づけられたものでありました。主イエス様がニコデモに「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」と言われたと き、その原理をはっきり述べられました。ペンテスコの日には「天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり」ました。あなたは今までまことにそのよう な激しい風が吹いてくるところにおられたことがおありですか。
 まさに激しい風に関するそのことがらはあらゆる他の支配権からその統治を奪い、しきたり、伝統、一般受けすること、また傾向や固定観念なしに選びがあるように始まるということです。激しい風(訳注:聖霊?)が続く間、それが支配者です。それがその時存在した方法です。しかし気分を害し、ショックを受け、あきれかえった人々がいました。彼らはその結果、そのような方法は神からのものでは決してあり得ないと言いました。少し後にペテロ自身がこの聖霊の原理に反対して主と論争したほどです。
 主はペテロに示されました。彼がその瞬間それがどんなものであるかを見ていなくても、主が押し広げられる道は限界を超える方向にあったり、あらゆる彼の伝統や確立された宗教的な決まりを破りさえするところにあるということでした。主は異邦人のところにはいっていくペテロにとって、一人のもっとも正統で保守的なユダヤ人としてきよくないもの、すなわち「あらゆる種類の四つ足の動物や、はうもの、また、空の鳥」を食べるように求められるようになるだろうことを知っておられました。それは明らかにモーセやレビ 記11章に優越して代わられるべきことでさえあったのですが、しかし主は彼にそうするように求められました。
 ペテロは「主よ。それはできません。」(使徒10:14)と矛盾する言い方でで言いました。しかし主はひるがれませんでした。その結果、ペテロは自分をいぶかる人々に説明して
 
「どうして私などが神のなさることを妨げることができましょう」(使徒11:17)と言いました。さて私たちがここで考えていることはそのことであります。御霊の支配に抗したのはある場合においてはペテロの固定化された伝統であり、同じことがペテロがしたことに抗して「彼を非難した」(使徒 11:2)エルサレムにいる人々の場合だったのです。後の機会にもペテロは同じ昔の伝統の誘惑に陥り、パウロはそのことについて非常に強く非難せずにはおれませんでした。

その要点は主が霊的な成長のためになさっておられたことでした。しかし引き起こされる障害は御霊の支配する余地がないというこの準備がなされていないことでありました。もし神の子どもやしもべがそれぞれの神との隠れた歩みや過程にあって認知され確立された組織によらず、それとは異なった新しい外見上はすべての容認され固められている、ならわしやつきあいに背く道を始めるように導かれるなら、エルサレムで起こったこと、つまり猜疑心や、非難や反対が何度も繰り返されるのです。

敬愛する友である皆さん、いいですか、私たちはこれに打ち勝って自らをコントロールしなければなりません。さもないと私たちは「神に敵対する」者となるか、「聖なるお方を制限する」者ということになるでしょう。福音書と使徒の働きを再度読んで下さい。そして読み進まれるとき、「あれやこれやは受容され長期に わたって確立された神の秩序に背くものとしてどのように解釈することができるのか」という質問をしてください。あなたは、キリストにことごとく反対する人たちやパウロの宣教を不可能にする目的をもって世界中追跡したユダヤ教の人々の仲間にはいらないうちは離れては行かないでしょう。それらの人々は彼らがそう信じて疑うことがない神の確立された秩序のためにきわめて熱心でした。あなたは昔から神のあらゆる運動は人々が神の秩序だと信じていることとの対立であ り、関係する人々は悪魔の働きをするものとみなされてきたということを認めませんか。

それはキリス トにとってもそうでしたし、使徒たちにとってもそうだったのです。神が何度も何度も神の民を彼らの固定化された習慣の枠組みを無視することによって霊的に成長するように動かれた時があったのです。考えを欠き、また適用を誤ったスローガンを用いたり聖句の断片をまちがって適用することはいともたやすいことで す。(そのうちには「実によって彼らを見分けることができる」マタイ7:20ことがあるのです)非常にしばしば、そのような損害を与える短剣を胸に突き刺すようなことがおこるのは、新しく、非日常的なあるいは大変不思議な方法によって神の子どもがとりあつかわれるのにふさわしく主に余地を与えるのに失敗するためだけです。

ピリポは大きな信仰復興の働きのど真ん中、その場から立ち去ります。彼は突然姿が見えなくなります。そして砂漠に一人の人として当分の間孤立させられるのです。しかしそれは御霊の支配下にあったことです。そして私たちはピリポを批判し、悪くなったと言うよりはむしろ全部の話が数年後に書かれるまで待つべきです。
 
だから、私たちは、あらゆる霊的成長のために、当座は理解できないこと、新しいこと、不思議なことを神がなさる余地を残さねばならないということを知るのです。もし私たちが主を自分たちの固定的な判断に結びつけるなら、主が私たちを霊的に成長させたいと考えられることから外れるだけです。
 
「ナザレから何の良いものが出るだろう。」(ヨハネ1:46)とは善人がそこからは一歩たりとも自由になれなかったありふれた偏見でした。そしてその偏見が主ご自身に劣らないお方に降りかかったのです。

(今日の箇所は Hindrances to Fullness of Life の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003435.htmlです。)

2011年11月4日金曜日

霊的な前進とはみことばに従うことなり

私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか。(新約聖書 ヘブル6:1)

はじめのところにとどまっていないで、前進しましょう。それでは前進するというのはどういうことを意味するのでしょうか。もちろん、私たちにとって、それは霊的な方法で前進するということです。私たちは新しい主の摂理の中にいます。そしてこれは霊的な主のお取り扱いです。しかし私があなたに前進の意味についてお示ししたい一つのことがあります。それはイスラエルにとっては地上的なことではありましたが、荒野の彼らの真実な姿がありました。同じことは霊的に道において私たちにとっての真実な姿であるということです。

もし、あなたがヘブル人へのこの手紙をもう一度読むなら次のことを知るでしょう。霊的に前進するとは主が言われたことを実践することであるということです。あなたは私たちが主によって語られたようには前進していないことを良く自覚していますか。今はそれは極めて奇妙な言い分のように聞こえるでしょう。しかし、主は私たちにご自身で話すことができるのです。私たちは主のことばをいただき、主が私たちに与えることができる教えを全部持ち、神の真理を全部知り、多年にわたってそのすべてを持っていたかも知れません、しかしそれを全部持っていても、私たちは依然として立ち尽くしたままで前進していないかもしれないのです。そうです。それは主が言われたことを知ったことにはならないのです。問題はそれを実践することです。主が言われたことを行うこと、それが前進する唯一の道であります。

それでは私たちはどのように前進するのですか。私たちは静かに腰を下ろして「さあ、主は私たちに今まで何を言われたのか」と言います。恐らく過去4、5週間以上、あるいは過去数年以上そうであるかも知れません。主はこのところやあるいは主の多くのしもべを遣わしてあなたに語られてきました。今や主のみことばを読むことによって、あなたは山ほどのたくさんの真理を知っているかもしれません。しかし、あなたは前進しないのです。主は私たちとともにいたいと望んでおられるように、主は私たちとともにはおられないのです。

主の臨在は力です。主の臨在はいのちです。主の臨在は聖さであります。ああ、主の臨在はすべてに重要です。しかしそのことはすべてにおいて極めて実践的であります。主は理論の存在を受けつけられません。主は教科書的なことでさえその存在を受けつけられません。主はきわめて実践的な主なのです。だから主の私たちに対する態度はこうです。ご覧なさい。わたしはあなたにこのことを言いました。あなたはそれを聞きました。恐らくあなたはそれを喜んだでしょう。またそれが真理だと信じたことでしょう。あなたは、主にそのことを感謝しています。しかし私たちはそれについてこれまで何を実践してきましたか。

(今日の箇所は "That They May All Be One, Even As We Are One" - Meeting 34 の 抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003434.htmlで す。抜粋が全文章の途中で終わっているので、これだけでは何か物足りないものを感じられる方もおられるでしょうが、くわしくは原文をさらにお読みください。)

2011年11月3日木曜日

驕慢は御国に人を入らせない

今日の富士山、手前は富士川(by yuriko.O )

神は、この世の知恵を愚かなものにされた。(新約聖書 1コリント1:20)

(さて、今やそれが取り上げられる一つの立場であります。そして洗礼を授けられる人々がなしていること(訳注:つまり水の中に沈むということ)は、それがその人々が取った立場であるということを実際的な方法で鮮明にすることであります。彼らが見い出していることは、単に教義の形式に従うのでなく、彼らがまさしく生き生きとした状態に入ったこと、そしてそれ以来主がこのことの含意(訳注:ロマ6:4参照)を良しとされるということです。
 主は言われます。それは(訳注:古い人は)死にました。あなたはそれを持って行くことはできない、墓からそれを持ち出したり、戻したりはできません。そして彼らは主が御子の死に終わったものとみなすことを明確に示しておられるに過ぎないことをいつも知ることでしょう。しかし、もちろん、死の側面においてこれらのことがらに対する主の態度や立場を受け入れる時はいつでも、私たちは自身を取り除く度合いに応じて、より一層キリストを体験するということです。
 私はあなたがたに是非認識していただきたいのです。それは最も賢い人から最も愚かな人にいたるまでも、私たちのうち誰もが本当にキリストを受け継ぐとき、もう一度すべてのことをあらゆる面にわたって学ばなければならないということであります。)

私たちがこの世が与える知識なり情報を大変たくさん持っているというのは本当でしょうが、知識においてや他のいかなるやり方においても最も賢明で豊かな人も、キリストを受け継ぐ人は霊的なことについてのABCを学ばねばならないということです。

(彼らはそのことに気づくでしょう。あらゆる事柄が幼児クラスから、霊的生活のゆりかごから学ばれねばなりません。私たちが主のところに来て、知っていることを考えることは役に立ちません。)

私たちが何も知らないということを知らされるにはそう時間がかからないでしょう。

主は言われました。「金持ちが神の国にはいるのはどんなにむつかしいことでしょう」と。私は考えるのですが、もし主が当時おられたところと別の世界におられたなら、つまり西側の世界におられたら、恐らくこう言われたのではないでしょうか。知識を持っている彼らが神の国にはいるのはどんなにむつかしいことでしょう、と。西側の世界の叡慮や知性、鼻にかける知識は御国にとって大きな障害です。御国は何かを知るためには備えられていません。

パウロがユダヤ教の世界から脱出した時、絶えず、この世の叡慮が大きな障害であると言っていた種類のものがそれだったのです。ユダヤ人にとっては富の線に 沿った利得、異邦人にとっては知識の線に沿った驕慢が障害だったのです。そして生まれながらの性質に属するものはどんなものも破棄されるべきであります。 なぜならそれは私たちが御国を受け継ぐ障害であるからです。私たちは主との交わりのうちに長く過ごせば過ごすほど、自分が何も知らないことをますます知るのです。私たちが持っている一かけらの知識も私たちは全く何も知らないということであり、私たちは絶えず少しでも知りたいと望むだけであります。

霊的知識には王道はありません。私たちは最初から良いスタートを切り、行く道に沿うたびに主のことを学ばねばなりません。私たちが若いクリスチャンとして出発するとき、私たちは何かを知っていると思い込むでしょう。しかしそれは若気の至りというものです。私たちはもう一度最初からやり直して学びつづけるので す。私たちが生まれながら備えている知識はそれがどんなものであってもそれはこの際、価値がないのです。霊的知識とは異なるものです。私たちはもう一度初めからやり直し始めたのです。しかしその立場を受け入れるとき、すなわち、私には学ぶべきことがすべてだ、私は心を開き、学びたい、私は何も知らない、そういう時、主は教えることができるのです。主は私たちに始めるとはどんな意味があるか、そして十字架の意味は私たちの古き人にとっての終わりであり、新しい人にとっての始まりであることを示しておられるのです。

(今日の箇所は Foundations - Chapter 4 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003433.htmlです。今日の訳は7/10「死、それが神が始められるところです」の続きの箇所ですので併せて読んでいただくと文意はよりいっそうはっきりすると思います。)

2011年11月2日水曜日

義とする務め

いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。(新約聖書 ヨハネ6:63)

( いのちと死の問題

みことばが死の務めといのちの務めについて厳密にかつ正確に言わないことは不思議です。しかし、みことばは「罪に定める務め」と「義とする務め」と言っているのです。いのちが何であるかはわかることです。いのちの言及はあるのです。)
 
御霊が言及される時はいつでも御霊がいのちと関連していることにあなたは注意していますか。そう言われるとき、いのちは義のことなのです。「義とする務め」がいのちの務めを意味したり、また罪に定められる恐れやさばきもなく、顔におおいをかけないでいのちにあって(主の前に)立てることを意味しているのです。この真理を認識することは最も重要です。基本的です。私たちの信仰のいろはの一つであります。

小手先のことのように聞こえるかも知れませんが、主の民は教えを必要としています。奨励を持つことはいいことです。私たちが証を持たねばならないこともいいことです。主のみことばが時々私たちに完全な宣言とならねばならないのもいいことですが、私たちは主の民として、それだけでなく信仰において健全な教えと基盤を必要としているのです。

今日たくさんの主の民がいます。彼らは基盤がしっかりしていないため自らの立脚点に立つのはほとんど不可能だということを知っています。結局彼らの主との関係はきわめて情動的なものであり、一種の興奮状態にあり、信仰の基盤を調べると良く根付いてはいないのです。敵がやって来て嵐が彼らを見舞うと彼らは自分がどこにいるかわからないのです。私たちの救いにおいて興奮状態や情動さらにはもっと上辺だけの要素は恐ろしい反対の緊張に置かれたり、それに加わるに敵がとがめると土台が露呈し破綻がたくさん出るのです。もし彼らが主を信頼しつづけるなら彼らが失われることはありません。しかし彼らが救いを満喫している限り、彼らは失います。

だから私たちがみことばに徹底的に教えられることが必要です。そしてこれは 私たちが心と精神において完全に明白であり、霊において確信をもたねばならないことの一つです。そのいのちとは、何をさておいても、主との顔におおいをつけない交わりのいのちであり、死に勝利し罪定めを無効にするいのちです。いのちは義、すなわち義の務めに根ざしているのです。私たちは神の前で完全な確信と信頼をもって次のように言うことが可能であるに違いありません。「主よ、私がキリストから離れていることは確かです。しかし私がキリストと信仰のつながりによっていることは、あなたご自身の義によって私が義であるということです。私は滅ぼされませんし、罪定めのもとにおかれることもあり得ません。」あなたは神にその基盤の上に立って申し立てることができます。もし私たちがそのように話して良いのならばですが。神は私たちがその基盤の上で神を試すように招いておられます。

(そのようにしばしば主は私たちを引き出してまさしくその線に置こうとされ、そのような状態に置かれることが許されます。あなたは主がアブラハムに低地の町々を破壊されようとしていることを告げられたとき、アブラハムが神に次のように申し立てたことを覚えているでしょう。「あなたは正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。・・・正しい者を悪い者といっしょに殺し、そのため、正しい者と悪い者とが同じようになるというようなことをあなたがなさるはずはありません。とてもありえないことです。全世界をさばくお方は、公義を行うべきではありませんか。」

かなりたくさんのことばを用いてアブラハムは「もしあなたが滅ぼされるならその結果はご自身を滅ぼされることになるでしょう」と神に申し立てたのです。その結果、神のアブラハムに対する答えは「もしそれが本当ならわたしはそうはしない。さばきは少しでも正しさがあれば下され得ない。たとえそのあらわれがどんなに小さくとも、わたしの目から見て最も小さい義であってもわたし自身の性質からしてさばかず、最後まで保留する」であります。そして私たちは「こうして、神が低地の町々を滅ぼされたとき、神はアブラハムを覚えておられた。それで、ロトが住んでいた町々を滅ぼされたとき、(義人ロトを救い出されました。2ペテロ2:7)神はロトをその破壊の中からのがれさせた。」(創世記 19:29))

(今日の箇所はSpiritual Ministry - Chapter 4 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003432.htmlです。)

2011年11月1日火曜日

神を見えなくさせる力

散歩途中の野菜畑の一角に菊が五つ固まりほどあった。創造主の色の配慮よ!
イスラエルの人々の思いは鈍くなったのです。というのは、今日に至るまで、古い契約が朗読されるときに、同じおおいが掛けられたままで、取りのけられてはいません。なぜなら、それはキリストによって取り除かれるものだからです。 (新約聖書 2コリント3:14)
 霊的盲目である(訳注:神を信じられない)ことの理由

原因については一つ二つのことば(が考えられます)「この世の神がくらませた」その句には二つのことがらがあります。まずこの盲目とは結局は単なる自然なことではなく、超自然的なことであります。生まれつき盲目であると言うのはすべてを言ったことにはなりません。そうなのです、この盲目についてはそれよりもはるかに邪悪なものがあるのです。超自然的な盲目ではありますが、邪悪な超自然的な盲目であります。それは悪魔の働きです。それが一方で霊的な視力が与えられるには常にそのような恐ろしい闘いがなぜ伴うのかという理由であります。

誰も闘いなしには、また価を払うことなしには、そして恐ろしいまでの苦悩なしには、決して本当に御霊によって見え、理解するようにとはならないのです。( No one ever really does come to see by the Spirit and understand without a fight, without a price having to be paid, without a terrible amount of suffering.) 真の霊的照明と啓蒙はいかなる部分も犠牲をともなうものです。そのためにパウロは聖徒に関して膝を屈しなければならなかったのです。「私はひざをかがめて」「私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださるように」祈ります。(エペソ1:17)それは祈り抜かれなければならないものであります。エペソ人への手紙が6章で啓示されることと関連が大変重きをなすことに意義があるのです。

「私たちの格闘は主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。ですから神のすべての武具を取りなさい」あれやこれや 「すべての祈りと願いを用いて、どんな時にも御霊によって祈りなさい」(エペソ6:12〜18)「この暗やみ」「絶えず祈る」「私は神があなたがたに神を知る知恵と啓示の御霊を与えてくださるように祈る」ご存知のように全部一つのことです。説明はここに、すなわち「この時代の神」にあるのです。私たちはこの霊的盲目のうちにある超自然的なものと対決しているのです。私たちはまさしく悪魔という全宇宙的な力、すなわち人々を盲目の状態に維持するように働く霊的存在と戦っているのです。)

真に霊的な視力を持つことは小さなことではありません。それは驚くべき勝利をあらわしています。そのことは単に受動的に座っていて、見えるように口が開くこ とによって実現するものではありません。このことに関する訓練がなければなりません。あなたが本当に霊的理解を求めようとする時、この時代の神の完全な力に抗して立っているのです。それは超自然的な闘いです。ですから、真の啓示の宣教となることはいかなる宣教の部分も闘いに巻き込まれます。前にも闘い、渦中にあっても闘い、後々まで闘いがあります。闘いとはそのようなものです。

それで、ここで光について訓練される必要があるのです。それはあなたが聞いているとは言え、聞いたならわかったと鵜呑みにしないことです。その後、あなたは主に対して明確に処理しなければなりません、また、主があなたに打ち破るように求めておられることが始められねばなりません、そしてことばを聞いたからと言って今や知っていると思い込んで自らを欺かないことです。あなたはそれを知らないかもしれないのです。まだ光が生み出されていないかもしれないのです。このことに必要な闘いがあるかもしれないのです。

もし私たちがそれを知るに留まっているのだったら、生活において生ずるたくさんの闘いは、神が私たちの目をご自身に向かって開かせ、御子の光へと私たちを連れ込むための道に私たちをもっと連れて行こうと求めておられるからで す。神は私たちの霊的水準が広げられることを望んでおられます。それに対して敵は反対し、助けることができたとしても助けるつもりはありません。闘いが発生するのです。私たちはそのことを理解できないかも知れませんが、極めてしばしばそのとおりなのです。すなわち主は物事の背後におられます。サタンは言います、もし私がそれを助けることができても彼らは見ないであろう、と。そこで大きな衝突が生ずるのです。この目が見えないことは、ちょうど光が照らされることが超自然的であるのと同様に超自然的なことであります。

(今日の箇所は Spiritual Sight - Chapter 5 の 抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003431.htmlで す。今日訳出しました部分のうち後半部分が該当箇所になりますが、私の英語力では難しく太刀打ちできません。識者の添削指導が欲しいところです。今日の直接の該当箇所ではありませんが、英文を併記したところは訳文に自信がないところです。)

2011年10月30日日曜日

神を愛するなら・・・

「チェリーセージ」と言うらしい、二三日前の庭の花。
知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです。しかし、人が神を愛するなら、その人は神に知られているのです。(新約聖書 1コリント8:1〜3)

(私たちは私たちもふくまれている地上の神の民を見回して、なぜ、私たちが今ここに生かされているかに関して私たちの考えを整理する必要があります。なすべきことがあるかもしれません。しかし神は私たちがなすことよりも私たちがどうあるかにはるかに関心を持っておられます。ですから私たちは再度奉仕とは何かをすっかり学ぶ必要があります。しかし今私はそのことを追求するつもりはありません。ただ次のことは言いたいのです。神に対する奉仕は根本的に霊的であるということです。別のことばで言い換えますとキリストご自身が神を満足させるために神の創造された世界に持ち込まれる手段であります。私たちはキリストをいかなる人の生活にも説教によってお連れすることは出来ないということを知っています。あなたはもうそのことを体験されましたか。あなたが出席された修養会からキリストのどれだけがものになりましたか。私があなたに言っていることがあなたのうちにキリストを再生できるという欺きに私は組するものではありません。私たちは時代の終わりについては話せるかも知れません。しかし私たちの説教はキリストを生み出せないのです。私たちがこのことに関してお互いに助けることができるのは神は何をすることを求めておられるかを理解することだけです。

神の御霊だけが私たちをキリストの形にすることができます

だから私たちは目的に関してこの第二の事柄に戻りましょう。神が視野に置いておられ、みわざをなさる考え、目的があります。しかしこのところに聖霊は絶対必要な仲介者として間違いなく完全に入って来てくださるのです。

「御霊は・・・とりなしをなさる・・・神にしたがって」

神の「ご意志」ということばは聖書ではイタリック体で印字されています。原文ではないからです。神を知り、神の考え、神の心を知る御霊は神にしたがって働かれ、私たちのうちに働いておられます。私たちは、父よ、と叫ぶ子ども、養子の御霊を受け入れたのです。私たちは神の息子として宣言されるべき神の子どもでありますが、このすべてのことは聖霊が働き、言うに言われないうめきをもって執り成していてくださるからです。「御霊は私たちの弱さを助けてくださる」彼はそばに来てくださいます。御霊お一人がキリストを再生し私たちがキリストの似姿に一致させることができるのです。

しかし、私たちはずっとその奉仕は説教や教えやあれやこれやの様々なことをなすことだと考えてきました。しかしそれは御霊の手段に過ぎません。このことについて欺かれないようにしましょう。もし聖霊が働かれないなら集会出席もそれ以上のどうということもないことでしょう。言われていることは全部極めて真実であるかも知れません。しかしあなたがそれを全部知っても神の目的には達したことにはならないでしょう。このことにおいて私たちは聖霊に砕かれるのです。その中心には私たちが耳にする全てにまさる本当の訓練のための必要があるのです。)

事実はこうなのです。私たちは自らのありのままの状態にまさって霊的な知識(ここで意味しているのは知識、真理の知識です)において長足の進歩をとげるかもしれません。しかしそれから恐ろしい状況下では長年積み重ねて来た全ての知識が私たちの助けにならないということを発見し、ショックを受けるのです。事態に突き当たっ て、「私は持っていると思っていた真実なものを獲得していない、それらは私の役に立たない。私は今まさしく本当の個人的な主ご自身の生ける知識の土台に戻らされているのだ」と言わねばならないのです。

もちろんその時の危険は身につけて来た教えを全部捨てて、この教えは価値のないものだと言うことです。それは確かに価値のないものでしょう。しかし、私たちは心の中で神の考えを知ることと神の目的を実現するために聖霊がお用いになるその知識との間にはあらゆる相違があることを認識しなければなりません。このようにして私たちは細かい点に至るまで(主ご自身の生ける知識の土台に)戻り、主による本当の取り扱いを経験しなければなりません。私たちの態度はどんな時も、「主よ、どうぞ私が聞いたことが聞かされたことであるに過ぎないことが明らかになる時まで私を助けてください。そして神の目的に達することを聖霊の働きの礎としてください」というものであらねばなりません。(Our attitude every time must be, "Lord, do save me from ever coming to the time when what I have heard proves only to have been a thing heard; make it a basis of Holy Spirit activity to reach the Divine end."

もしあなたがこのことを確信することができるなら、そのことは大きな解放となることでしょう。なぜ神の民が悩むのですか。それはそれぞれが御子の姿に一致するためなのであります。私たちにはそうなるために大混乱する世界がもちろん必要ではないでしょう。しかし、神はあらゆる状態をその目的のために用いられま す。そして世界の揺り動かしが必要である主の民がたくさんいることは、かなり悲劇的であります。主の民はキリスト教の外部性に関してその全機構や組織と大変緊密であります。それゆえ崩壊・破壊があり、全ての事業に関して大きな疑問を引き起こす以外の何ものでもないものが神の御霊が本当に働き始めるところへと人々を連れ出すのです。その神の働きは主の民のうちになそうとして来られた働きであります。

(今日の箇所は Conformed to the Image of His Son の 抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003429.htmlで す。これまで引用文以外に増し加えたものは小文字で示しましたが、これからは大文字で示し、前後にかっこをつけます。ご了承ください。英文を併記しましたところは特に誤訳の恐れのあるところです。ここだけではありませんが・・・)

2011年10月29日土曜日

万物は御子にあって創造されています

今日も日本は快晴でした。用水路の空き地を利用した三層の花の展開です。
すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。(新約聖書 ローマ11:36)

 聖書において二つの契約、新約と旧約によってあらわされているような二つの区分はないということ、ましてや旧約聖書が時代によって細分されていてもその区分さえないということは明確にする必要があります。確かに表現方式において二つあるいはそれ以上のものがありますが、聖書全巻をとおして初めから終わりまでたった一つのことが述べられているに過ぎないのです。

 聖書を摂理によって扱い、異なった時代の異なった特徴を強調する私たちの性向は、まるで類型論や象徴論に夢中になりうるかのように機械的に注意させる結果にこれまでなったかもしれません。だから、私は次のことをもう一度強調したいのです。すなわち神はこういう様々な表現形式によって初めから終わりまで一つの考えによって、しかもただ一つの考えによって行動されるということです。万物は、一貫して、あらゆる時代において、神の御子をあらわし、神の御子に従属しているということです。

 神はご自身の人格や、また贖いや完全な働きの真実さをもって万物を統治されます。それが、 聖書の最初の巻から終わりまでの一つのご人格であり、一つのお働きなのであります。旧約聖書から新約聖書への変化は簡潔であり、間接的なものから直接的なものへの変化に過ぎないのです。また、象徴的なものから象徴されるものへの変化、そして一時的な表現から霊的な真実在への変化であります。それがすべてです。目的や対象の変化ではありません。また基盤や土台の変化でもありません。それはいかなる仕方にあっても原則の変化をあらわすものではありません。

 おそらくあなたがたはそのことを全部知っていると感じているでしょう。しかし、私たちのうちの何人かが今まで認識したことよりもはるかに多くのものがあるのです。たとえばあらゆる神の家長に対するお取り扱いはご自身があなたや私に対して取り扱われるのと同様に原則としてご自身の御子の基盤の上に基づいたことでした。旧約聖書におけるイスラエルは私たちがこの摂理のうちにあるのと同様に神の御子の基盤の上で取り扱われていました。神は決していかなる時も、またいかなる手段によっても、ご自身の御子以外のいかなる基盤の上に立って働かれたことがないのです。

 神の創造的な活動はご自身の御子の地盤の上にあったのです。「御子のうちに、御子を通して、御子によって、御子に向かって、万物は創造されました」(コロサイ 1:16)その時から万物はその基盤の上に始まりましたし、将来キリストにおいて完成されるのです。どんな手段によろうとも、どんな方法によろうとも、神は 働かれ、ご自身の基盤は常に同じだったのです。そして来るべき時代においてその基盤は変わることがないのです。それはキリストという土台です。私たちがこのことを記憶し、そのことについて全くはっきりした態度を取ることは大変重要であります。

(今日の箇所は The Israel of God - Chapter 5 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003428.htmlです。)

2011年10月28日金曜日

聖なる国民

三須臾の赤い実、春先には黄色い花を咲かせ、晩秋にはこのような実をならせるのですね
あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。(新約聖書 1ペテロ2:9)

クリスチャン生活の始まりは新生と呼ばれるものです。あるいはもっと正確に言えば、上から生まれると呼ばれるものです。そのことは一体どんなことを意味しているのでしょうか。外形的にあらわすならイサクの誕生と死からのよみがえりが意味していたことを全部意味していることです。つまりこのことは私たちの新生そのものによって私たちがやみの力から解放されて神の愛のあらわれである御子の支配する御国へ移されていることを意味しているのです。新生、改宗(それをあなたがどのように呼ぼうとも)によってクリスチャン生活の始まりはそもそも二つの王国の完全な分離の上にあるのです。一方の国から他方の国への移行であります。一つは私たちが生まれ、肉の性質に属する汚れが支配する国です。他方は聖なるものが支配する、「あなたがたは聖なる国民である」という、この世から分離されて神へと移される国であります。新生は始まりにおいてこのことがどんなに完全であるかという点で間違いなく明確にされたことを意味しております。

主イエス様はこのことについて人々と分離されていたこと、つまり完全に切り離されたことは疑いありません。主は危険を冒されたのです。あなたがたは恐らく言うことでしょう。なぜ彼ら(訳注:迫害する者?)から逃げなかったのか、彼らの気分を害する危険を冒したのか、なぜ彼らを失望させ「除け、除け、除け」と絶えず言わせたのか、と。 主は真実ゆえに、つまり次の恐ろしい真実ゆえにこのことについて必要上あらゆる危険を冒されたのです。すなわちあなたがたがいかなる方法においても神に敵対するこの世の国にしがみついている限りあなたにはできない、決して天の御国を継ぐことはできないということです。

二つのものは一緒になり得ないのです。一つは汚れています。もう一方は聖いのです。そして新生によって私たちは紅海のように、ヨルダン川のように、そして主イエス様の十字架と同様に(訳注:越えるのに)広い、非常に広い境界線を横断するのです。新生・・・私たちが手に入れ、導かれたのは聖いいのちです。神に向かって聖別されるきよいいのちです。神に向かう完全な分離なのです。それは聖さのうちを歩むことです。

新約聖書は、このことについて、すなわちこの世から分離し、心において、霊において、いのちにおいて聖く歩むことを、どれだけ口を酸っぱくして言わなければならないこととしていることでしょうか。そして、もし私たちがそれを知ったら、聖霊の支配下にあるクリスチャン生活において教育、霊的教育および訓練のかなり大きな割合は、混合されている事どもを処理することでなければならないのです。混合は二つの世界を何とかやりくりしようとしていることから生じるからです。

主は生活と証が弁別されることを、本当の意味での弁別を求めておられます。私たちの生活、この世にあってつながりを持ち、交わりなどを持つあなたや私の生活は私たちが属する領域や属するお方と一部の隙間もないように完全に分けられていますか。誤らせるものはありませんか。それとも混合があり妥協がありこの世や悪魔の支配下にある人々と良好な関係を続けていますか。もしそうなら私たちは恐ろしく損害を受ける立場にあります。私たちは失うのです。商売やその仕事で働くところで私たちはどんな種類の証を持っていますか。私たちは本当に(キリストのからだである神の)教会に属しているのでしょうか、またそのことを重要視しているのでしょうか、それとも行きずりの者なのでしょうか。

私たちの生活には、あの人は、あの女の人は、あの青年は、あのお乙女は全く神に徹しているという何らかの著しい特徴がありますか。あなたが四六時中みるように彼らは神に徹しているということに疑いがないのです。彼らは物事をいい加減にしません、妥協が一切ないのです。このことは厳しいように聞こえますが、必要なことです。

あなたはこうしたことをどう思いますか。友よ、力の秘訣は聖さです。もし私たちの生活に力がないなら、それはどこかに何ほどか神への絶対が欠け、神に向かってのこの分離が欠けており、何らかある種の妥協、すなわち私たちの霊的力と活力を奪い、自分の陣営に下すこの世の君との妥協があったりすることによります。力の秘訣は聖さです。あなたが他のどんなことを忘れようとも、そのことは覚えていてください。

(今日の箇所は A Holy Nation の 抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003427.htmlで す。今日の文章は訳するのに困難を覚えました。勝手な訳が散見すると思います。ご指摘をいただきたいです。しかし現実の生活の中でこの霊の戦いをこの二三 日体験させていただきました。本日一人の方が主の憐れみによりみもとに召天されました。しかしその素晴らしい恵みとそれを台無しにしようとするこの世の悪の霊の力を体験し、余りにもヴィヴィッドであるスパークス氏のメッセージとの符合に恐れを覚えました。)

2011年10月23日日曜日

生けるお方

何層にも及ぶ雲海、遠くに八ヶ岳、手前は浅間山麓の樹林と畑(10/16)
そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。(新約聖書 1ヨハネ5:11)

(ヨハネ3:10〜11、1テサロニケ1:9、ヘブル9:14、ローマ9:26、2コリント3:3、6:16、マタイ16:16、1テモテ4:10、1テモテ3:15、ヘブル12:22、3:12
 あらゆるこれらの聖句、生ける神との実際生活上の様々な観点を扱っているすべてのものに詳細に触れないで、全般的なことを小さな範囲に集約し、いくつかの簡単で直接的で正確な適用をお話しすることにつとめます。

生けるお方

 第一に認識すべきことは私たちが関わらなければならない神は生ける神であるという事実です。おそらくそれはそれほど驚くべきこと新鮮なことだとは思われないでしょうが、私が信ずるのに、それに関しては、その他のあらゆるものに関しても、私たちが概して遠ざけられて来た意味を認識するために目覚めることは可能だということです。
 私たちが関係する神は生ける神です!上掲の聖句が示すように、恐らく私たちのほとんどの者が知るべき理由を持ってきたように、その事実は二つの側面を持ち、二つの意味を告げるものです。一方では心のうちの正直な者にとってはかりしれない心地よさがあるという事実です。そもそも私たちが真心から生ける神に向かうとき、恐らく生ける真の神に向いていることを知ることは最大の出来事でしょう。
 テサロニケ人について、彼らが偶像の神々から「生けるまことの神に仕えるために」立ち返ったことを読むことができます。使徒はこういう信者の間でそのことが意味していたことを喜んだのです。と言いますのは、テサロニケ人へのこれらの手紙は、もし、いのちがある手紙でなければ、何物でもないからです。
 そういうことを思って読んでごらんなさい、そうすれば、テサロニケの人々がいのちにあって生き生きとした歩みをしていることが分かるでしょう。随所に生き生きとした証、喜びの証、感動する証のしるしがあります。そうです、あふれるばかりの、それが遠くまで、しかも故郷を離れた遠くまで達するほどの感動があり、それらをふくめて彼らの信仰があらゆる教会で話されたのです。使徒が彼らについて言及する必要はなかったのです。それは彼らをとおして、ことばが遠くまで広く伝えられて行ったからです。彼らにとって発見の意味を持ったのは、他の宗教でもなく、他の教えの体系でもなく、他の人々との交わりでもなく、彼らが立ち返った生ける神にあったのです。物事でなく生けるお方にあったのです。)

私たちの証がどういうものであるかに関しては、完全に私たちがどれだけ主を理解しているかにかかっています。もし私たちの気持ちが教えや伝統や解釈や人間のつながりやキリスト教に向いているなら、何かを見失うことになります。しかし、もし生ける神に向いており、主が生ける神であることを悟っているなら、いのちを得ることができます。すべてが初めからまさしく経験において生き生きするのです。そのように言っても決して過言ではありません。

最初に目覚めることを言いましたが、私たちのうちのある者は目覚めるのが遅過ぎるのです。私たちを眠らせる事態は(たとえ、落ち着かず、不満足感があり、左右に揺れていたり、ため息やうめいきをついたりすることを除けば大半は眠っていたことを知らなくとも)キリスト教や生活においてかなり早くから神の民のことどもと関係して来たという事実がありました。キリスト教や主との交わりは幼児期にもたらされたものでして、それは全部全く慣れ親しんでいたまわりにある主の事柄の組織体系の事柄となって来たのです。祈りをするように、集会に行くようになどはずっと教えられてきました。ところが、ある日、この神が生ける神であるという事実に目覚めたのです。永らくあるやり方で主とつながって来たのですが、主は私たちにとって個人的なものでなく、生ける神ではなかったのです。

もし許しを請う必要があるなら、そのような初歩の段階に戻ることを許してください。というのは私たちの間にある関係はその種のものであるいくつかであることは全くあり得るからです。恐らくあなたは主と関わりのある事柄と関係を持っていたことでしょうが、個人的に内面的に生ける神を喜べるかとかあなたにとって生けるお方であるかどうかの質問に対してはどうだったのでしょうか。私たちはそこに戻って始めねばなりません。もし聖霊がそのことをこれまで真実にしてくださったり、 過去にあなたの経験において真実にしてくださらなかったのならこのすべてのことはあなたにとっては無であります。私はよくわかるのですが、かなり多くの方の生活における事実にとっては、主のことと長年関係して来たが突然主が生けるお方であるという事実に目覚めさせられる日がやってくるというのが真実であるということです。それはそのことを悟るようになる時に私たちにとってかなりたくさんのことをふくむものです。様々な観点からそのことは私たちにとってすべてを意味するのです。今や私たちは主のものなのです!私たちは主を知っているのです!

(今日の箇所は The Living God の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003422.htmlです。冒頭で著者が掲げる聖句は一つ一つ調べると励まされます。すべて「生ける神」をふくむ聖句です。その「生ける神」が読者の方にも聖霊によって生き生き体験されるようにと祈る者であります。)

2011年10月22日土曜日

道を外れているキリスト教世界

新しいカップルの誕生を祝う満席の西軽井沢国際福音センター(10/15)
わが民よ。この女から離れなさい。その罪にあずからないため、また、その災害を受けないためです。(新約聖書 黙示録18:4)

礼拝に関する霊的いのちとは何ですか。それは教会の建物ではありません。祭服でも、しきたりでも、儀式でもありません。それらはカルバリとともに無用になっています。そのようなものを少しでもいつまでも持たせることは十字架と矛盾します。今日私たちはどこにいるか考えて見なさい。愛する方々、その手のものを維持するのは主イエス様がもたらされたことをよく理解していないからです。

それでは何が霊的礼拝でしょうか。霊的礼拝はそのすべての背後に戻り、霊的意味を考えることです。もたらされ、いけにえとしてささげられたものは、調べられ、欠陥、傷、汚れ、矛盾があるなら、念入りに二つの要素、二つの色調、二つの種類を調査されました。もし少しでもそのようなしるしが見つけられるなら全部が駄目にされました。しかし、念入りな調査の後、欠陥や傷が全然発見されず、専門家の鋭い目を持つ神の代理者がそれらを「タテレスタイ」、つまり「完全である」と宣言されるとき、それらは神にささげられたのです。そしてこの型に具体化された真理がこれであり、神との唯一の交わりは主イエス様の霊的完全さの基盤の上にあるということでした。

礼拝はもはや動物のいけにえを持ち込むことでなく、心からキリストの完全さを味わうことから持ち上がることであります。それが礼拝です。昔の祭服は単に型や象徴や例にすぎませんでした。聖職者の衣装は神であり人である主イエス様の性質である義と美と栄光の型をその間ずっと語っていたのです。今やそれは信仰によってキリストを理解する人に与えられ、神の義が転嫁され、分与されるのです。キリストにあり神の目を持つ私たちは美と栄光と聖潔という衣装を身につけるのです。それではなぜ一つの方式が永続するのですか。主イエス様はそのすべてをご自身の十字架で片付けられたのです。すべては消え失せています。それが主が霊とまことによって礼拝するということで言わんとされていることです。

宮と天幕は型に過ぎませんでした。その型が語るのは、あがめられるべきかしら、ひとつのからだ、神の宮に加えられるものとして聖徒が霊的に交わることであります。ひもによって一緒に束ねられている天幕の板は聖徒たちが一つの霊、一つのからだに「継ぎ手とひも」で結びつけられているゆえに神の義と聖潔と栄光を分与されていると語っていることに過ぎないのです。採石場で労し、槌や斧の音なしに一緒に運ばれ宮の石が一緒に組み立てられることはただ霊的な住まいのために一緒に築き上げられる生ける石を予兆して語っているだけです。神は今や手で造られた宮にお住みにはなりません。けれども霊的なからだ、すなわちキリストに属する者はキリストと結び合わされたのです。

それではなぜ神が十字架において退けられたものが永続し 「多数である私たちはひとつのからだである」という事実が低い段階にとどまり、高い段階に達することに失敗するのですか。あなたは今日事態が道を外れてい ることを自覚していますか。私はこれがどんなに広がっているかを覚えるものですが、このすべては礼拝とかかわりがあることなのです。

さてこのすべての霊的な意味を認識し知り、そのうちに参入できないで昔のものが維持されるとき、あなたは依然として魂のレベルにとどまり、欺かれるままであることを銘記しなさい。すべてのことが恐ろしいまでに欺かれるのです。それでは、その欺きはどのように働くのでしょうか。こんなふうにしてです。つまり、 かなり多くの善良なクリスチャンは完全に神の啓示を切り離す伝統的な体系に縛られているのです。ただ霊的な啓示を除くのが伝統的な組織・キリスト教体系であります。主イエス様の十字架が神に対する霊における自由をあらわし、主のいのちと光の満たしへと導くのです。それがヘブル人への手紙が書かれた全般的な目的であります。

手紙はその大切な目的のためにあったのです。ここにはキリストにある神との交わりの真の性質に関して、すでに光を受けた人々がいたのです。主イエス様は宮、聖職者、犠牲、聖さん、そして安息日でさえ、その代わりとなられたお方です。安息日はもはや単なる時をあらわすのでなく、人であるお方と関係ができたのです。神はキリストにあってご自身の安息に達せられたのです。あらゆる神のみわざはキリストにあって完成されました。神はキリストが十字架の贖いによって神のみわざを完成したとき、ご自身の安息に入られたのです。

もはや、それは形式や儀式や建物や聖職者やいけにえではありません。すべてキリストです。彼らは(訳注:ヘブル人)それを経験したのです。主は彼らを宗教的、形式的、歴史的、伝統的陣営から引き出させるために召されました。その結果、迫害、追放、孤立、孤独、その他あらゆることが生じたのです。公認の宗教人はそれゆえに彼らに厳しく当たりました。真に霊的であり天的であるために支払わねばならない報酬は大きいものでした、そして今も大きいものです。そして彼らは危険にも昔のものに戻る危機状況にいたのです。ヘブル人への手紙はちょうど彼らをその危機から救い、彼らに十字架、主イエス様のみわざによって生じた大きな変化についてさらに完全に教えるために書かれたのです。一つの体系が過ぎ去って行きました。それは地上の代理者でした。そして別のもの、すなわち天的に真実なものが入って来たのです。

その手紙がどのように「天国にあることがらの模型」と「天的事物そのもの」についてどれほど語っているかおわかりでしょう。ヘブル人への手紙は偉大な結論に達しています。すなわち、「私たちは天的なエルサレムに、注ぎかけの血に、新しい契約の仲介者であるイエスに近づいています」(訳注:ヘブル12:22〜24参照)と。

ところが目にするものは歴史的なキリスト教であり、伝統的なキリスト教であるものが礼拝の魂のレベルのものとして依然として維持されています。その礼拝では特定の窓をあつらえ、特定の音楽と特定の祈りと特定の人々、特定の衣装を備えたもの、その他礼拝を助けるもの全てを備えた建物を持たねばならないのです。すべてこれが神との真の交わりをもたらすものです。それはカルバリ以前の基盤にもどる生き方であり、すべてが魂のものであり、神との内面からする完全に個人的な霊的な交わりをうまい具合に妨害するものであります。

いのちである主を知るために私たちは表面的な体系である(過去の)墓の衣装から自由にならねばなりません。

(今日の文章は Christ the Power of God - Chapter 4 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003421.htmlです。抜粋引用がきわめて自由になされていて一部原文の順序を無視していますので、訳文では原文を生かした形で掲載しています。)

2011年10月21日金曜日

宗教は最大の敵

路傍の草花、10月14日 御代田
いと高き方は、手で造った家にはお住みになりません。(新約聖書 使徒7:48)

(恐らく私たちが関係していることで、大切な識別をする際に最大の失敗は神秘主義と霊的であることとのちがいに関わることでありましょう。こういうところに世が誤解されるだけでなく、キリスト教も欺かれるところがあるのです。実に自らクリスチャンであると自認する人々の圧倒的多数の人々が一方では神秘主義(美 的感覚にふさわしい)や禁欲主義(自己否定の実践)と他方では霊的であることの識別ができないのです。事実これらのものは二つの全く異なる領域に属し、神のことばはそれらの間をばっさり切り離します。
 カインと「カインの道」 について話すとき、すぐ彼の殺人行為、嫉妬と敵意から生じたことを想起することに慣らされています。彼の怒りっぽい、ぐちっぽい、すねる心、機嫌の悪さや神に対する無礼な態度さえあることを思い出すことでしょう。しかし思い出すべき別の側面があります。カインに対して公平であらねばなりません。さもないと全体的な観点を見失います。カインは神を排除したり無視はしませんでした。ことばの通常の用法に従えば神なしとする人ではありませんでした。神の存在を認めていました。それから、彼は神のために祭壇をこしらえたのです。さらに彼は疑いなく、神に嘉納するものとして自ら骨折り苦労した産物の最上のものを選 び、携えたのです。ここには宗教上の献身がありました。カインは美的感覚を全部働かせて礼拝しました。そして、カインは殺害したのです。弟を。ユダヤ人もキリストがおられたとき、同じことをしました。)

キリスト教は大体においてこの感覚、すなわち建物や、儀式や、音楽や、装飾や、照明や、あるいはそれを欠く場合には色調や、雰囲気や衣装などによって成り立ちます。
(しかしカインは神に徹しなかったのです。ユダヤ人も徹しなかったのです。)
霊的な死がその領域を特色づけます。様々な解決に役立つ強い感情や、「高度な」思想や意欲があるかもしれないのに対して、関係する人々の生まれつきの性質には心からの変化はありません。この繰り返される投薬は、それぞれに良い感情を生ずる魂の自己満足の方策を維持するために取られねばならないのです。あらゆる宗教はこの魂的な性質を共通して多かれ少なかれ持っています。その致命的な間違いが、多くの宗教的な人々によってなされてきたのはこういう事情によるのです。彼らは疑いもなく心からの真摯な他の宗教は妨げられるべきでなく、それらのうちに良きものが認められ受け入れられるべきだと主張します。

聖書が霊的であるということと宗教とを混同しているのです。宗教は高いレベルに上り、恐ろしい深みにまで沈めることができるのです。両方をなす同じものであります。しかし、そのものは決して人間のレベル以上には上らないし、決して神に達することはありません。宗教は神の真の考えの最大の敵に成りうるのです。 なぜならそれが悪魔の最善の惑わしであるからです。禁欲主義はまことに唯美主義に過ぎません。There is no more a brief with God for rigors, denials, fastings, puritanic iciness, etc., as such, than for the opposite. 純真であることは神に機会を与えるかも知れませんが、必ずしも霊的ではありません。好みかもしれないのです。
(どんなに、詩、音楽、芸術において崇高な思想や考えがしばしば道徳的な堕落や不品行を相伴って進み行くことでしょうか。)

どれほど知覚や説明において神秘的なことは真理に近づきうることでしょう。想像力は聖書においてすらどんなに素晴らしいものを見得ることができることでしょう。どんな畏敬や驚きや法悦の興奮が支配的な魂によって聴衆や会衆を射抜くことができることでしょう。しかし、それはすべて神もなく永遠から出るものでもないニセの世界であるかも知れません。それはこの生活をここで練りあげ、単調さから救い出すために懸命であるかも知れません、しかしそこが最後なのです。私たちはどんなに人工的な世界に来ていることでしょうか。音楽が前進し、浪漫的な要素が服飾や金ぴかのもので明らかになり、人間の個性が見せびらかされるとき、どれほど誇りや競争心が自己主張するのか、信じさせるどんな力がその環境に入ってくるかを良く見なさい。まことに人工的な世界です。私たちはずっとその中にいました。そして後にその反動を知るのです。 どれほどその結果はうつろで空しいことでしょうか。死海のなれの果てともいうべきことです。このメロドラマの悲劇はかなり多くの人にとってそれが「現実の生活」であるということです。この魂の世界が悪魔の模造品であります。宗教に関係しようと、しなかろうとそのことが明らかになるところはどこでも全部ニセものなのです。

宗教や哲学や真理の体系であったり、道徳上あるいは倫理的な教義として受け入れらている「クリスチャンの信仰」は、偉大な理想の一時的な励みになるかも知れません。しかしこれはいのちの再生あるいは霊の新しい誕生の結果によらないことでしょう。今日世にはそのような「クリスチャン」がたくさんいるでしょうが、彼らの霊的な効能はゼロであります。

(今日の文章は What is Man? - Chapter 5 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003420.htmlです。英文は訳せなかったところです。今日の箇所はスパークス氏が聖書をとおして明らかにしている人間の構成要素である「霊」と「たましい」のちがいに思いを馳せるとき理解がスムーズに行くのではないでしょうか。特に最後のパラグラフの前にはおよそ二頁分の文章があります。その辺を補って訳したかったのですが、今回は原文がそうなので、それに従いました。よりくわしく読まれたい方は全文お読みなさることをお勧めします。それにしてもこの「人とは何者でしょうか」とも読めそうなこの文章は全部で11章のA4版にして77頁のものです。全文読みたい文章の一つです。)

2011年10月17日月曜日

管理者精神は永遠なり

久しく留守にしていました。今日から数日、10/7〜10/16の旅を載せます。先ずは眼鏡橋です。
このばあい、管理者には、忠実であることが要求されます。(新約聖書 1コリント4:2)

神様の目から見て、最大の徳は忠実であると私は信じます。忠実さはすべてのものを受け入れます。同時に忠実さは神様ご自身のみこころに従うのです。

この管理者、すなわち使徒パウロを一瞥してください。「デマスは私を捨てました・・・」(2テモテ4:10)「・・・アジヤにいる人々はみな、私を離れて行きました。・・・」(2テモテ1:15)忠実さを引き起こすものがどれもこれも駄目になっている時のパウロをご覧なさい。彼は実際にひとり置き去りにされています。彼には今までよりももっとたくさんの敵がいるのです。そして今や悲劇であり悲惨であることは彼の敵のかなり多くの人が彼がもっとも多く仕えた人々であることです。尽したことのない敵がいることはそれほど難しいことでないのに対して、今や彼が尽しきった当の人たちが敵となってしまったのです。しかしあきらめるという考えも、兆しも何らありません。

彼の言葉は 「・・・死に至るまで忠実でありなさい・・・」であります。こういう管理者が忠実なのです。彼が死んだ時、事態は大成功を証明したとあなたなら言えないでしょう。全くそのようには見えなかったのです。パウロの生涯は絶対に外形的には汚名をそそぐことはありませんでした。(しかし)果たしてそうでしょうか。彼は孤独な人として大体において死にました。しかし忠実でした。「・・・管理者には、忠実であることが要求されます。」

けれども他の人を富ますことは、その要求を満たすことに続くものであります。それがたとえどんなに犠牲があろうとも。パウロは死んでいないのです!私はパウロが自身の宣教から生じたものをすべて知っており、また彼の宣教が私たちにとって重要であることを願うのみであります。主は私たちに主のしもべをとおして出会わせてくださいました。そして私たちはパウロをとおしてでなければ、決して決してキリストの満たしのもっとも深いところや基底部のいかなるところにも近づけませんでした。

私たちは進み続けるでしょう。そしてもし私たちが今の人生の二倍三倍生きるとしても私たちがパウロの管理者としての忠実さに依然として負うことが多いことに気づくことでしょう。それが幾世紀も続いて来たのです。

それが忠実な管理者精神です。そしてたとえ管理者が地上の管理責任から解き放たれて召されたとしても、その管理者精神は続くのです。忠実さがいつも私たちの途方もない夢にまさって報われるのです。願わくは、主が、時々忠実さが私たちに完全な失敗に見えたとしても、私たちに忠実さを守らせてくださいますように。主が私たちを良き管理者にしてくださるからです。

(今日の文章は The More Excellent Ministry - Chapter 3 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003416.htmlです。昨日御代田でベック兄のメッセージをお聞きしたばかりですが、全くその続きのようなスパークス氏のメッセージです。)

2011年10月4日火曜日

よみがえりのキリストの力

友人がフィレンツェの思い出に焼きつけた試作品、土台はご主人が九十九里浜の流木を裁断したという
いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。(新約聖書 2コリント4:10)

今や私たちのからだにとってよみがえりのキリストに価値があるのです。キリストのよみがえりのいのちは、今やからだに力を与えることができるのです。 それは差し当たってからだをキリストの栄光あるからだに似たものに変えることでなく、奉仕のためにからだを生き返らせるのです。死ぬべきからだに、よみがえりのいのちが与えられるのです。よみがえりのいのちは慎重に当てられ、選ばれ、引き出されねばなりません。私が体調がすぐれず、へたへたと座り込むほど弱くなり、「ああ、主よ、来てください。私を元気にし、立ち直らせ、良くしてください。」と言う時、よみがえりのいのちは役に立ちません。主は決してそうはなさらないのです。私が、絶望的な弱さ、体力の減衰、完全に無能力を味わうような時、主がくださるいかなるものも、主が私にご自身をつかまえさせるように働かれた結果としては導かれませんでした。主は決して来てくださいませんでしたし、突然私にいのちが満たされ、充満され、よみがえりの思いにもさせられることもありませんでした。

私は非常にしばしば主が、聞こえる声でな く、提案や助言という良きもので、いのちをつかみなさい、わたしのいのちを自分のものとしてつかみなさい、と言われた素晴らしい時を経験しました。話された言葉ではありませんでしたが、暗示がこの結果に対してありました。それは私自らがこの状態(訳注:アダム的な状態)と縁を切り、いのちを求めてキリストをつかむようになった時です。そしてそれがもっと進んだ奉仕の期間のための再生となったのです。主は私たちをロボットのようには取り扱われません。主は私たちが主のよみがえりのいのちの基盤の上に立ってご自身と協力するようにさせられるのです。

よみがえりのキリストの全ての価値は、私たちが主のよみがえりのいのちを落ち着いて確信をもってつかむことによって見出されるのです。それはたとえ体やたましいや霊であろうとも、「縁を切ったアダムよ」と言うだけであり、必要はどんなことであろうともキリストに立つしかないのです。それは霊に対してでしょうか。精神に対してでしょうか、心に対してでしょうか、意志に対してでしょうか、体に対してでしょうか。本質的な唯一のことはその一つ一つの状態に対して確信をもってキリストに立つということです。

こうして最初にお話したところに戻ってきます。すなわち、経験にとってキリストの全領域とは私たちのうちにあるよみがえりのいのちとそれをつかみ、その上に立つことに依存しているということです。主は私たちにそのことが意味することをよりたくさん示してくださるのです。

(今日の文章は The Risen Lord and the Things Which Cannot be Shaken - Chapter 3 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003400.htmlです。誤訳があると思います。全文から意訳につとめたところもありますが。)

2011年10月3日月曜日

神と人の前で真理を語り続けたい

芙蓉の白は青空に似合いますね。
むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。(新約聖書 エペソ4:15)

(詩篇51篇は深い淵の底からというタイトルでよく知られていることでしょう。詩人が悲しみと良心の呵責という最深部に達しているのはこの詩篇です。深部が「血の罪」の問題である時、それはほっておかれないのです。というのは罪のためにモーセ儀式が提供する全ての中には血の罪のための備えがないからです。死だけがその答えです。このことがダビデがヒッタイト人ウリヤの挿話(2サムエル11章12章)ゆえに、この詩篇で知り、直面していることです。ダビデは神のあわれみが死よりももっと深く浸透しなければならないということをよく知っていました(死は当然彼が支払うべきものでしたが)。深い苦しみの中でダビデはきわめて重大な問題、論点に近づいたのです。「深さが深さを呼ぶ」とここにあります。もしその苦しみが罪と関連しているならば、深い苦しみは深い解決を求めるのです。解決は6節に「あなたはのうちの真実を喜ばれます」とあります。その最深部と解決に達するために神は私たちの失敗と罪を用いられるのです。

神の処遇の前進

 私たちの霊的な歩みのなかで神はもっとも深いところで私たちを取り扱われるのです。神は下へ下へと降りて来られます。それは私たちの大変深い点で物事が明らかになるように底辺に触れるまで続きます。神は私たちが専門とすること、主義、様々な思い込み、自負心、幻想、それに様々な習慣を次々削ぎ落とされるのです。
 これについては単なる形式主義はありません。またこの中には、単なるユダヤ教の儀式も、表面的な儀式もありません。そうです。これはもっとも心の奥の領域、すなわち心のうちに達することでなければなりません。神はその方向に沿って働かれます。神はつねにもっとも深奥部にむかって働かれるのです。あなたはそのことを認めますか。神が私たちを取り扱っておられることを理解しますか。
 ああ、神は私たちが神の前を、あの詩篇第一篇の人のように歩く時、一定の祝福をもって私たちと出会ってくださることでしょう。また私たちが背き、律法に違反し、失敗し悪をなすとき、私たちにやさしい備えをもって出会ってくださることでしょう。神は恵みをもって会ってくださるのです。ただし神はこの問題を私たちの存在のもっとも内側のところまで追求され、そのところで恵みと贖いの働きを刻印されるのです。
 三位一体 の神、父なる神、御子、聖霊はこの一つの性格、すなわち真理によって特徴づけられています。そして神はその神の性質の分与者である人を喜び、ご自身の心に銘記してくださるのです。だから神がこの目的に向かって絶えず深く深く働いてくださるので、すなわち主御自身の真実は神の子(神によって生まれさせられた者)の真実となり、この意味でそれらの人は当然神の本当の子となるのです。

すべての虚偽は悪魔的

 サタンはうそつき、偽りの父だと言われます。そのゆえにあらゆる虚偽は神にとって忌まわしいのです。神はすべてのうそつきどもを火の海に引き渡されました。すなわち神は新しいエルサレムからうそをつくすべてのものを除外されました。神は真理でない、ご自身のように徹底的にまっすぐ真理でないすべてのものを憎まれ ます。神は内面に真理を持たねばなりません。
 サタンによる神の創造物である人間に対する干渉は結果的に人が神がかかわるところで偽りのものとなりました。人は神のみこころを誤り伝えるものであり、欺かれる創造物です。 「この世の神は」とパウロは言い、「不信者の思いをくらませた」と言っています。人は欺かれ、目が見えなくされている生き物です。しかし神は「心のうちの真実」を望まれます。
 ご存知でしょうが、これはどんなに大きなことでしょうか。人はそれについて言うべきことと言わないでいいことを知るように追いつめられています。しかし、しばらくこの節「心のうち」をゆっくり考えてみましょう。この詩篇ではそのことばが真っ直ぐ貫いていることを見つけられることでしょう。ここにあるのがそれです。「私にきよいを造り」「私のうちに正しいを新しくしてください」「砕かれたと悔いたをあなたはさげすまれません」ご存知のように、それが今や心からの必要として生じて来た、この最も深い領域のすべてであります。もはや欺きはありません、偽りも、まがいものも、見せかけもありません。もはやすべて正しくない時、まるですべてが正しいかのように続けることもありません。もはや内側の不真実を覆い隠すために外側の手段を用いることもありません。内側が神の前に正しくない時、もはや集会に行き、お祈りをし、全体系に加わることもありません。その時私たちは自分たちが今や生まれながらの性質によって存在していることを知り、これが私たちの再構成になるのです。そのことに服しないことはたとえどんなことであってもそれ自身が偽りであります。)

外からちょうどうまい具合に装ったり、単に儀式や慣例によって内なるいのちを覆うような宗教組織はいかなるものも偽物であり、それは真実ではありません。神の働きは人間の性質を再構成します。そしてそれは当然二つのことを意味するのです。

一方で神の働きは破壊が伴います。そして神の御手に帰着する人々の取り扱いについて何ほどかのことを知るなら、疑いもなくそのことに対する大きな余地があるのです。それは漸進的な破壊であり、物事の本質に達することであり、真実を悟らせることにあります。もし私たちが自分自身に少しでも幻想を抱いているな ら、神がことをなさった時、全部なくなるでしょう。また、もし私たちが自分自身や自分の立場や働きについて何らかのうそのようなものに支配されるなら、神が私たちを取り扱われた時それは全部消滅するでしょう。神は私たちが自らがありのままで汚れていること、すべて自分たちの正義は、不潔なぼろ切れのようであるとわかるまで砕いてくださいます。

しかし、当然もう一方のことが四六時中あるのです。というのは神はつねに否定的であるだけではないからです。建設があり、にせもの、完全に透明で真実で真っ直ぐでないものが自分たちにとって憎しみになるように育てられるのです。ますます私たちの内なる人が私たち自身の欺瞞に反抗するのです。いかなる誇張もただちに悪であるとする有罪宣告が帰って来るのです。すなわちいかなる偽りの言明も私たちを厳しく打ち、私たちが真実を語って来なかったことを知らせるのです。神のように、私たちの憎む一事はにせである限りどんなものでも憎むようになるまで、聖霊の御手のうちに入ることになります。それは素晴らしいことです。「私は憎む」とダビデは言い、「あらゆる偽りの道を」と言いました。私たちはそのところに来なければなりません。けれども私たちは真理を愛し慕う者にならねばなりません。そしてこれが私たちをいたるところで追求するのです。すなわち私たちが全然自分を欺かないということが自分自身の内側の生活へと私たちを駆り立てるようになります。神の前で神が私たちを何と思っておられるかを知り、光のなかでどこに立っているのかを知るのです。 
社会生活の真実さ

 そのことは私たちの社会生活を追求するでしょう。そしてあらゆる社会のうそや見せかけは神の御手の下にへりくだってこなければなりません。ああ、社会の領域には何と巨大な偽りと見せかけが存在することでしょうか。あらゆる「見せかけ」についてはどうですか。見せかけによって、あなたは実際はそうでないのに何者かであるかのように見せてはいませんか。真実でない何かの外観を与えるためですか。すべての社会生活はそのようであります。それが不真実の構造です。そしてまことに真実でないことを良い案配に言う多くの方法を備えているのです。

実業生活の真実さ

 今度は実業生活を追求してみましょう。私たちが良い売り手や買い手にするうそ、商業上のうそがあります。ですから徹底的に神はこの真理の問題を追及されるでしょう。失礼ですが、それは神にとって大変大変重要な問題なのです。もし神が不真実なことを憎み、内側の真実を望まれるなら、うそがあるところ、少しでもそのようなものがあるところを神はどのようにして祝福なさるでしょうか。神の目は見ておられます。
 そしてこれは時のわざです、実に一生のわざです。このことはもっと光があてられるようになり、ますます激しく、一層続きます。主は私たちを、ちょうど私たちが子どもたちにするように霊的な幼児として多くのことを許しておられます。私たちは彼らが子どもであることを知っており、全く正しくないと知っている確かな事柄をあまり気にとめません。そして神は大変忍耐し私たちが成長するように気を使っておられます。神の性質のあらゆる満たしや正確さをもってよくなることはすぐにはされないでしょう。神は人の全生涯をかけて広げて行かれるのです。
 そして私たちが主のところに近づけば近づくほど、聖霊はますますこの真理の問題を細かく支配されます。すなわち聖霊の私たちに対するお取り扱いはますます緊密になるのです。「主 を恐れるきよさを完成する」完成が非常な真実であると知るのです。目的に近づけば近づくほど主の私たちの生活のいかなる偽りも主のお取り扱いはますます厳重であるでしょう。それは時の問題ですが神は非常に厳しくあられます。そうです。厳しくあられるのです。神はやり過ごされません。私たちは神が厳しくなさることを求めますか。確かに「ハイ」と言うことは愉快ではありません。しかし神が内側にあるあらゆる無定見、あらゆる矛盾、あらゆる偽りを厳しくしかられることは良いことです。)

(今日の箇所は Truth in The Inward Parts  の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003393.htmlです。このシリーズは三回目です。短編ですので、あともう少し頑張れば完訳です。

2011年10月2日日曜日

神は御子によって語られる

いわゆる「放蕩息子の帰還」1606年 レンブラント・エッチング
神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。(新約聖書 ヘブル1:1〜2)

神は過去、「いろいろな方法」で、つまり、さまざまな部分だけでなく、さまざまな様式で語られたとヘブル人への手紙は言っています。余り長く時間をとると旧約聖書に戻って神が語られたすべての様式を見ることはできないでしょう。神は無数の異なった手段によって、時にはことばによって、時にはわざによって語られました。その方式は実に「さまざま」でした。しかし、ここで宣言されていることは終わりに神が一つの方法、一つのすべてを包含する方法で語られたということです。それは神の御子のうちにあります。神の御子は、終わりに語られる神の一つの包含的な方法であります。一方では誰もイエス・キリストを離れては神から何も得られないでしょう。神は御子にある以外には全く語ることを拒絶なさるのです。もし神があなたに言いたいことが何であるかを知りたいのなら、あなたは御子のところに行かねばなりません。もう一方でイエス・キリストにあるなら私たちは神がつねに言おうとされることをすべて知るのです。

(特に若いクリスチャンに申し上げたいのです。私は長年かけて聖書を読み学んできました。全く正直にお話するのですが、今日この本・聖書は全く私の分を越えたものです。もしそのことが本当でなかったら、私は決してこのヘブル人への手紙には戻らなかったでしょう。長年この手紙から説教もし学びもしてきました。しかし今日この手紙は私をはるかに越えているのです。果たして私たちはこの手紙を「ヘブル人への手紙」と言っていて、いいのでしょうか。「この手紙に啓示されている主イエス」と言うのがもっと正確でありましょう。)

そうです。私たちが依然として理解しようとしていることよりもはるかにもっと神は御子にあって語っておられることをこの手紙をとおして知るからです。私たちはイエス・キリストから離れて何も持たないのです。イエス・キリストを離れるものは何も必要としません。

(手紙は神の愛が神が子に用いるむちにあらわれると言っています。神はいつも良いこと、最善なことを快適な形にまかされません。先日薬を飲まねばならなかった 小さな男の子のことを聞きました。そのことは(その子に取って)あまり愉快なことではありませんでした。彼の父親は言いました。「この薬にはビタミンがたくさんあります。」男の子は言いました。 「お父さん、なぜ全部いいものはいやなものに入れられねばならないのですか。なぜアイスクリームに入れることができないのですか」主はいつもいいものをアイスクリームに入れられるわけではありません。時にはビタミンはいやな薬の中にあるのです。
 さてそのことはこの手紙が言っていることにぴったりです。神が私たちをそのようにお取り扱いになるとき、私たちを罪に帰せられるのではありません。神は私た ちを解放するために働かれます。ただ、もしあなたがここにあるこれらの話があなたを救うのだと思っているなら、あなたは誤解しているのです。それらは神がなさっていることを説明するものに過ぎません。神は理論によっては決して救われません。)

あなたはキリスト教の教義についてかつて書かれたものをことごとく読むことはできましょうが、相変わらず同じ男性あるいは女性であり得るのです。神の方法は (それとちがって)非常に実際的です。神は経験によって私たちを教えるのです。その経験は時には非常に理解しにくく、ヘブル人の手紙のここでは(訳 注:12:7)「子の訓練」と言われています。

主イエス様が私たちの心に何度もこれらのことを焼きつけて下さいますように。神はそれでもなお御子のうちにあって語っておられます。そして神の語りかけは御子の仲間(兄弟)を得るためであります。この天からの召しを受ける仲間、キリストの仲間(聖徒)は厳しい学校に入り、多くの厳しい課程を学ばなければならないでしょう。しかしそれらを学んで一人一人が主イエス様にあって受け継ぐものがどれほど偉大であるかを理解するようになることでしょう。

(これにつけくわえたいのです。私の経験によれば、誰も苦難なしには本当に霊的な知識を身につけられないということです。頭の知識について話しているのではありません。内なるいのちにある主を本当に知ることについて話しているのです。苦難を抜きにそのことを知るにいたったと言う人を私は誰も知りません。恐らくそれは口に出すのも憂鬱なことでしょう。しかしそこに神のみことばにある法則があるのです。「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。」(2 コリント4:7)そしてこの土の器が試練と苦悩をとおしてどんなに貧しいものかを学びますが、一方で主がどんなに素晴らしいかを学ぶのです。
 ヘブル人への手紙は言います。「後になると」(それは、懲らしめのあとです)「平安な義の実を結ばせます。」(12:11)何というすばらしい聖句でしょう。これらの実は懲らしめの線に沿って、そして苦難の方法によって生ずるのです。そのように私たちも使徒が苦難のうちに喜んだに違いないその恵みを求めましょう。)

(今日の箇所は The On-High Calling - Chapter 5  の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003382.htmlです。このOn-high callingは1963年スイスの年会で語られたものの記録のようですが、珠玉の文章が11章に分けて記録されています。是非とおして全部読みたいものです。)

2011年9月30日金曜日

まことの神が示される彼岸の世界

この地に住み着いて、かれこれ30数年経つが、この一帯は初見であった。
世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。小さい者たちよ。今は終わりの時です。(新約聖書 1ヨハネ2:17〜18)

(ヨハネは終わりの時に対して「小さい者たちよ。今は終わりの時です。」(1ヨハネ2:18)と書きました。それなのに、彼はその終わりの時に始めを持ち出したのです。「初めからあったもの、・・・」(1ヨハネ1:1)しかしヨハネがこういう時のしるしを感じている一方、彼は永遠なることに関心を払っています。ですから私たちは始めへの言及と終わりの時への言及の間にいつまでものこるものに対する言及がなされていることを知るのです。「世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。」(1ヨハネ2:17)したがってヨハネの手紙には、始まりがあり、最後の時があり、「永遠」が書かれているのです。
 そのことに言及するのは手紙がふくんでいる全てのことはそのことと密接な関係があるからです。そしてこの手紙においてはこの終わりの時の特別な性格と目的の全要素があり、終わりの時に神がいつまでものこるものを産み出そうと意図されていることがあるのです。もちろん、ヨハネの手紙にはパウロをとおして私たちに示されたような奥義の完全な順序はありません。しかし私たちは終わりの時のすべての霊的な要素、神の私たちに対する取り扱いを支配している重要で根本的な霊的実在を手にしているのです。
 たとえば、まことの人の子としてのキリスト、かしらとしてのキリス トです。交わりという点ではキリストにある神と私たちは一体であります。また、私たちはイエス・キリストの血潮、神の御子、みことばと御霊という重要で支配的な実在を知ります。さらに永遠のいのちという重大で基礎的な原理、反キリストのうちにあるサタンの偽りの働き、信者の交わり、お互いの間の愛について言われていること、きよいいのちを知るのです。確かにこれらはこの特別な終わりの日に人々とともに神の働きをしなければならない重要な要因であり霊的な要素であります。
 第一の私たちの考察はこの文頭の意義にかかわることです。「初めからあったもの」私たちは終わりが初めによって支配されていることを大変注意深く認識する必要があります。そのことを考慮に入れ、心に留めることは大変重要なことです。「小さい者 たちよ。今は終わりの時です。・・・」終わりの時に関連して、初めからあったものが完全に現されるのです。ヨハネが見ていることは明確にかつ容易に体験され得るということです。別のことばで言えば、ヨハネはこう言っているのです。「小さい者たちよ、私たちは終わりに来ています、終わりの地点に立っています。今私たちは到達したもの全てが初めからのものであることを知りたいのです。それは終わりの時に初めの良いもののうちに立っていることができるようになるためです。また初めに出現したものが終わりに損なわれることもなく、弱められることもなく、完全に明確にここにあるようにというためです。
 ヨハネの言わねばならない全てのことは(小さな範囲に大変多くのことが集約されているのですが)初めにあったものを詳細に調べることですが、その始まりは終わりの民にあっては損傷することなく見出されることが約束されているのです。その道筋を取るように導かれるに際して彼は事実上次のように言うのです。「私たちは将来さばかれます。すべてのものが始めにあったことによって終わりの時にさばかれるのです。私たちは終わりの時にその基準に達しなければなりません。そして終わりの時にその光の中に十分立ち続けなければならないのです。」
 さあ、それでは手短に出来る限り、その重要性を把握出来るように分けて考えましょう。(中略)

 今日もそのことは大いに考えられます。私たちに破滅がやって来る、もはや主のために何をすることもできず、みことばを読むことも祈ることさえできなくなります。そして、通常の祈祷課題もこなすことができず、もはや主の民と会うこともできなくなると、やっとどれだけ多くのものがあるか知るのです。主の民のほとんどは、今やそこにさしかかっているのです。)

地上の大きな広がりを越えて神の民は動かされ、散らされ、表面的なあらゆるものを剥奪されるのです。問題は、なぜ主はそれを許されるのか、であります。主が賢明なお方であり、力があり、恵み深いお方であるなら、なぜそうなさるのか、であります。それは、どれだけ天上のキリストが神の民にとって大きいものであるか、そして地上の物事の秩序に、キリスト者の秩序においてさえ、どれだけ多く依存して来たかを悟るためであります。


「初めからあったもの・・・小さい者たちよ。今は終わりの時です。・・・神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。」皆さんはこのつながりを理解していますか。もし終わりに、最後の時に、それが初めからあったもののようであるなら、いつまでも続くでしょう。けれどももしそうでなかったら、それはなくなることでしょう。この主との天的な関係についての全体的な問いは大変大きな事実を探るものであります。その事実とはキリストがあらゆるものを天に移すということ、及び、主との天的な結びつきの中にあるいのち以外はいかなるいのちも、どんな時にも試みに立ちおおせることはできないということです。


私たちは主に対して、主が、もし本当にそれが真実であるなら、これを取り、私たちを探ってくださるようにと求めたいです。私たちの幾人かは満足することでしょう。なぜなら、私たちはこのことは正確には主が私たちを取り扱っておられることだと知るからです。なぜ孤独があるのですか。なぜ試みがあるのですか。なぜ霊的な生活に寂しさがあるのですか。私たちを事がらから、キリスト者の事がらからでさえ、そこから救い出して、主御自身のもとへと行かせるためであります。その結果、キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるという神様の目的が叶えられるためであります。事ではありません。キリストです。キリスト教ではありません。キリストです。キリスト者の働きではありません。キリストであります。

(今日の箇所は That Which Was From The Beginning - Chapter 1  の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003383.htmlで す。この文章はこのブログでも何度か登場したもので、今日の該当箇所はこの文章全体の末尾に当たるものですが、すでに5月13日に「天に属する民」という題で訳しているものです。その後4ヶ月は 経っているのですが、訳業は進歩せず、逆に今日の時点で訳してもそれ以上の訳が見出せませんでしたので、その部分は再録することにしました。ただしこの一 章の冒頭部分を今回は増し加え小さい文字で掲載してあります。お読みいただければ幸いです。なお中略の部分で小見出しで以下のことが語られています。「始まりが終わりの支配的基準である」The Beginning Remains the Governing Standard to the End )「特に強調しなければならないこと」(A Special Emphasis)「神の始まりであるキリスト」(Christ as God’s Beginning)「天の啓示」(A Heavenly Revelation )「天にある満たし」(A Heavenly Fulness )「キリストはすでにすべてのものを集め、天に移されている」(Christ has Gathered up Everything and Transferred it into Heaven))