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芙蓉の白は青空に似合いますね。 |
むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。(新約聖書 エペソ4:15)
(詩篇51篇は深い淵の底からというタイトルでよく知られていることでしょう。詩人が悲しみと良心の呵責という最深部に達しているのはこの詩篇です。深部が「血の罪」の問題である時、それはほっておかれないのです。というのは罪のためにモーセ儀式が提供する全ての中には血の罪のための備えがないからです。死だけがその答えです。このことがダビデがヒッタイト人ウリヤの挿話(2サムエル11章12章)ゆえに、この詩篇で知り、直面していることです。ダビデは神のあわれみが死よりももっと深く浸透しなければならないということをよく知っていました(死は当然彼が支払うべきものでしたが)。深い苦しみの中でダビデはきわめて重大な問題、論点に近づいたのです。「深さが深さを呼ぶ」とここにあります。もしその苦しみが罪と関連しているならば、深い苦しみは深い解決を求めるのです。解決は6節に「あなたは心のうちの真実を喜ばれます」とあります。その最深部と解決に達するために神は私たちの失敗と罪を用いられるのです。
神の処遇の前進
私たちの霊的な歩みのなかで神はもっとも深いところで私たちを取り扱われるのです。神は下へ下へと降りて来られます。それは私たちの大変深い点で物事が明らかになるように底辺に触れるまで続きます。神は私たちが専門とすること、主義、様々な思い込み、自負心、幻想、それに様々な習慣を次々削ぎ落とされるのです。
これについては単なる形式主義はありません。またこの中には、単なるユダヤ教の儀式も、表面的な儀式もありません。そうです。これはもっとも心の奥の領域、すなわち心のうちに達することでなければなりません。神はその方向に沿って働かれます。神はつねにもっとも深奥部にむかって働かれるのです。あなたはそのことを認めますか。神が私たちを取り扱っておられることを理解しますか。
ああ、神は私たちが神の前を、あの詩篇第一篇の人のように歩く時、一定の祝福をもって私たちと出会ってくださることでしょう。また私たちが背き、律法に違反し、失敗し悪をなすとき、私たちにやさしい備えをもって出会ってくださることでしょう。神は恵みをもって会ってくださるのです。ただし神はこの問題を私たちの存在のもっとも内側のところまで追求され、そのところで恵みと贖いの働きを刻印されるのです。
三位一体
の神、父なる神、御子、聖霊はこの一つの性格、すなわち真理によって特徴づけられています。そして神はその神の性質の分与者である人を喜び、ご自身の心に銘記してくださるのです。だから神がこの目的に向かって絶えず深く深く働いてくださるので、すなわち主御自身の真実は神の子(神によって生まれさせられた者)の真実となり、この意味でそれらの人は当然神の本当の子となるのです。
すべての虚偽は悪魔的
サタンはうそつき、偽りの父だと言われます。そのゆえにあらゆる虚偽は神にとって忌まわしいのです。神はすべてのうそつきどもを火の海に引き渡されました。すなわち神は新しいエルサレムからうそをつくすべてのものを除外されました。神は真理でない、ご自身のように徹底的にまっすぐ真理でないすべてのものを憎まれ
ます。神は内面に真理を持たねばなりません。
サタンによる神の創造物である人間に対する干渉は結果的に人が神がかかわるところで偽りのものとなりました。人は神のみこころを誤り伝えるものであり、欺かれる創造物です。
「この世の神は」とパウロは言い、「不信者の思いをくらませた」と言っています。人は欺かれ、目が見えなくされている生き物です。しかし神は「心のうちの真実」を望まれます。
ご存知でしょうが、これはどんなに大きなことでしょうか。人はそれについて言うべきことと言わないでいいことを知るように追いつめられています。しかし、しばらくこの節「心のうち」をゆっくり考えてみましょう。この詩篇ではそのことばが真っ直ぐ貫いていることを見つけられることでしょう。ここにあるのがそれです。「私にきよい心を造り」「私のうちに正しい霊を新しくしてください」「砕かれた霊と悔いた心をあなたはさげすまれません」ご存知のように、それが今や心からの必要として生じて来た、この最も深い領域のすべてであります。もはや欺きはありません、偽りも、まがいものも、見せかけもありません。もはやすべて正しくない時、まるですべてが正しいかのように続けることもありません。もはや内側の不真実を覆い隠すために外側の手段を用いることもありません。内側が神の前に正しくない時、もはや集会に行き、お祈りをし、全体系に加わることもありません。その時私たちは自分たちが今や生まれながらの性質によって存在していることを知り、これが私たちの再構成になるのです。そのことに服しないことはたとえどんなことであってもそれ自身が偽りであります。)
外からちょうどうまい具合に装ったり、単に儀式や慣例によって内なるいのちを覆うような宗教組織はいかなるものも偽物であり、それは真実ではありません。神の働きは人間の性質を再構成します。そしてそれは当然二つのことを意味するのです。
一方で神の働きは破壊が伴います。そして神の御手に帰着する人々の取り扱いについて何ほどかのことを知るなら、疑いもなくそのことに対する大きな余地があるのです。それは漸進的な破壊であり、物事の本質に達することであり、真実を悟らせることにあります。もし私たちが自分自身に少しでも幻想を抱いているな
ら、神がことをなさった時、全部なくなるでしょう。また、もし私たちが自分自身や自分の立場や働きについて何らかのうそのようなものに支配されるなら、神が私たちを取り扱われた時それは全部消滅するでしょう。神は私たちが自らがありのままで汚れていること、すべて自分たちの正義は、不潔なぼろ切れのようであるとわかるまで砕いてくださいます。
しかし、当然もう一方のことが四六時中あるのです。というのは神はつねに否定的であるだけではないからです。建設があり、にせもの、完全に透明で真実で真っ直ぐでないものが自分たちにとって憎しみになるように育てられるのです。ますます私たちの内なる人が私たち自身の欺瞞に反抗するのです。いかなる誇張もただちに悪であるとする有罪宣告が帰って来るのです。すなわちいかなる偽りの言明も私たちを厳しく打ち、私たちが真実を語って来なかったことを知らせるのです。神のように、私たちの憎む一事はにせである限りどんなものでも憎むようになるまで、聖霊の御手のうちに入ることになります。それは素晴らしいことです。「私は憎む」とダビデは言い、「あらゆる偽りの道を」と言いました。私たちはそのところに来なければなりません。けれども私たちは真理を愛し慕う者にならねばなりません。そしてこれが私たちをいたるところで追求するのです。すなわち私たちが全然自分を欺かないということが自分自身の内側の生活へと私たちを駆り立てるようになります。神の前で神が私たちを何と思っておられるかを知り、光のなかでどこに立っているのかを知るのです。
(社会生活の真実さ
そのことは私たちの社会生活を追求するでしょう。そしてあらゆる社会のうそや見せかけは神の御手の下にへりくだってこなければなりません。ああ、社会の領域には何と巨大な偽りと見せかけが存在することでしょうか。あらゆる「見せかけ」についてはどうですか。見せかけによって、あなたは実際はそうでないのに何者かであるかのように見せてはいませんか。真実でない何かの外観を与えるためですか。すべての社会生活はそのようであります。それが不真実の構造です。そしてまことに真実でないことを良い案配に言う多くの方法を備えているのです。
実業生活の真実さ
今度は実業生活を追求してみましょう。私たちが良い売り手や買い手にするうそ、商業上のうそがあります。ですから徹底的に神はこの真理の問題を追及されるでしょう。失礼ですが、それは神にとって大変大変重要な問題なのです。もし神が不真実なことを憎み、内側の真実を望まれるなら、うそがあるところ、少しでもそのようなものがあるところを神はどのようにして祝福なさるでしょうか。神の目は見ておられます。
そしてこれは時のわざです、実に一生のわざです。このことはもっと光があてられるようになり、ますます激しく、一層続きます。主は私たちを、ちょうど私たちが子どもたちにするように霊的な幼児として多くのことを許しておられます。私たちは彼らが子どもであることを知っており、全く正しくないと知っている確かな事柄をあまり気にとめません。そして神は大変忍耐し私たちが成長するように気を使っておられます。神の性質のあらゆる満たしや正確さをもってよくなることはすぐにはされないでしょう。神は人の全生涯をかけて広げて行かれるのです。
そして私たちが主のところに近づけば近づくほど、聖霊はますますこの真理の問題を細かく支配されます。すなわち聖霊の私たちに対するお取り扱いはますます緊密になるのです。「主
を恐れるきよさを完成する」完成が非常な真実であると知るのです。目的に近づけば近づくほど主の私たちの生活のいかなる偽りも主のお取り扱いはますます厳重であるでしょう。それは時の問題ですが神は非常に厳しくあられます。そうです。厳しくあられるのです。神はやり過ごされません。私たちは神が厳しくなさることを求めますか。確かに「ハイ」と言うことは愉快ではありません。しかし神が内側にあるあらゆる無定見、あらゆる矛盾、あらゆる偽りを厳しくしかられることは良いことです。)
(今日の箇所は
Truth in The Inward Parts
の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003393.htmlです。このシリーズは三回目です。短編ですので、あともう少し頑張れば完訳です。)