2011年12月7日水曜日

まことの聖所への道

風激しく裸木となった樹木 12/4 於 牛久市生涯学習センター
これによって聖霊は次のことを示しておられます。すなわち、前の幕屋が存続しているかぎり、まことの聖所への道は、まだ明らかにされていないということです。キリストは、本物の模型にすぎない、手で造った聖所にはいられたのではなく、天そのものにはいられたのです。(新約聖書 ※ヘブル9:8、24)

( さて、ヘブル人への手紙があらかじめ何らかのことを見越して書かれていたことを覚えていらっしゃいますか。使徒はそのようなユダヤ教の全体系が間もなく灰塵に帰することを知っていました。主イエス様はそのことを預言して石は積まれたままで残されることはないと言われました。ユダヤ教は4つの嵐に見舞われるのです。すなわち宮も、天幕も、いけにえも、祭式も、祭司者もなくなるのです。すべてのことが終り、神の預言が実現し粉々に砕かれるのです。彼らの神との交わりがそのようなものと結びつけられているなら、これらの人々はどうなることでしょうか。それはなくなるのです。体系ごとなくなり、神は人々がそのようなものから救い出されることを望んでおられました。地上にしばられていたものがなくなり、救いに属する新しいものへと移行されるのです。)

 神との交わりは私たちが集いに行けるかどうかにかかわらず私たちが主につながっているというその種のものであらねばなりません。私たちがすばらしい心を満たす音楽を持とうが持つまいが主としっかりつながることです。私たちはそのような地上的な領域には属していません。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。」(訳注:ヨハネ4:21)

 レンガとモルタルは霊を満たすことはできません。人のたましいは神とつながりのある霊という媒体を通してしか神と交わることはできません。それがカルバリの十字架がなしたことなのです。もちろん、みなさんは十字架のメッセージがなぜ受け入れられないかを理解しておられるでしょう。もしみなさんが十字架を受け入れ支持するなら、歴史的で伝統的な遺産に強力な分裂をもたらすという理由のために宿営の外に追い出されることでしょう。恐ろしいことです。サタンは神が伝統的なものを廃棄されたとき、神の代理権あるいはその遺産を適用する典型的な仕組みを制したのです。神が時期にかなった計画を実行されたことをサタンは神との真の交わりの性質をあいまいにしてとりこにしようと夢中になったのです。

 さて、どなたも 私がそのような仕組みの中には霊的な人々はいないと言っているとは思われないでしょう。私はそんなことを言っているのではありません。しかし、私の言いたいことは次のことです。もしその伝統がその人たちにとって霊的ないのちに置き換わるものであったり、その伝統を持たねばならないとし、かつその伝統に生かされていて、それを越えて物事は見ないし、またそこからは自由になれない領域であるとするなら、その人々はカルバリの十字架の意味をはき違えたのだし、十字架につけられたキリストの意味、すなわち神の叡智と力を全く取り違えているのです。この世の主権と権力と戦うことは外面的な事柄以上のものを要求するのです。

 ご存知の通り私たちは恐ろしい働きに直面しています。すばらしい霊的な立場に直面にしており、霊的な立場が唯一それこそふさわしいのです。私はみなさんが十分な光を、いただいて、これまで言われて来たことが正しいと知られると確信しています。私たちは主が私たちに最初に最上として与えられた立場以下のいかなる立場も取りたくありません。私たちは神のめぐみによって私たちのために神が第一の地位にあるように最大の犠牲を払う用意があることを確信します。私たちが主とともに歩み続け「うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進」(訳注:ピリ ピ3:13)めますように。そしてもう一度「みもとに行こうではありませんか」(訳注:ヘブル13:13?)とヘブル人への手紙のところに来ることができますように。

 おもちゃや絵本や挿絵や像や型はほとんど知性のない子どもたちのためにあります。それ らは神の意図が子どもを持つことでなく、息子を持つことが明らかになる時には取り上げられます。二つのもの(訳注:こどもと息子)の間には大きな違いがあるのです。だからカルバリの十字架は神とのつながりが外形的な事がらに過ぎない幼稚園からは離れ、私たちが神の息子として精一杯成長する天的な秩序の満たしをもたらすのです。願わくは私たちがそうでありますように。

(今日の箇所は Christ the Power of God - Chapter 4 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003487.htmlです。久しぶりの訳業です。この半月ほどオズワルド・スミスの本を松代幸太郎さんの訳で数冊読み、魅了されてきました。英文を読むより、日本語訳を読む方がさまざまなことがわかり、一年弱オースティン・スパークス氏の文章につきあってきて、英語読解力がなく、多くの時間をささげたため、失ったものがあることを知りました。けれどもこうしてまた曲がりなりにも最後の月に翻訳に戻れたことを感謝します。ただこれまでの訳と違い、逐語訳にはなっていず、また正確な訳ではありません。英文に触発されてこのような意味でないかと思う私のことばが先行しているところがあります。英語読解力のある方は是非英文そのものをお読みくださいますようにお願いします。なお、今日の引用聖句はサイトではヘブル8:3、13と書いてありますが、文章そのものはヘブル9:8、24ですので、そのように訂正しました。)

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